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各論的事項 №25
「ES細胞、iPS細胞、幹細胞の利用」

>島 次郎(東京財団研究員)

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 人の胚(受精卵)の内部細胞塊から、体中の細胞に分化できる多能性を持つ幹細胞=ES細胞(胚性幹細胞)の樹立に成功したとの論文発表があったのは、1998年11月のことだった。同時期に、同等の多能性を持つ幹細胞(EG細胞)が死亡胎児の始原生殖細胞から樹立できたとの論文も発表された。

 再生医療研究はこのときから始まったといえるが、それはまた重い倫理的課題の始まりでもあった。胚を壊してつくるES細胞や、人工妊娠中絶による死亡胎児由来のEG細胞の研究は、人の生命の始まりを犠牲にする行為として、キリスト教保守派を中心とした社会勢力から激しい反対を引き起こした。日本では欧米ほどの世論の反発はなかったものの、政府が倫理指針を設けて研究を管理する慎重な姿勢がとられた。その際、EG細胞の研究は、問題が多いとして承認が見送られた。

 その後2002年に、骨髄の間葉系細胞に多能性を持つ幹細胞が含まれることが発見され、いち早く臨床応用されるに至った。患者自身の体から採取できるので、医学的、倫理的ハードルが低かったためである。日本でも閉塞性動脈硬化症に対する骨髄幹細胞移植が先進医療に認められている。ただ骨髄由来幹細胞はES細胞に比べ増殖能と分化能が弱く、治療に用いるには限界があった。

 そこに新たに登場したのが、2007年にヒトで樹立されたiPS細胞である。皮膚など通常の体の細胞に、四種類の遺伝子を組み込んで多能性を持つ幹細胞に再プログラミングできるという発見は、生物学の常識を覆す偉業であった。そしてそれ以上に、胚や胎児などの、人の生命の始まりを犠牲にせずにつくれるiPS細胞は、それまで再生医療研究に伴っていた倫理問題を回避できるという理由でも、大歓迎された。iPS細胞研究は、再生医療の倫理問題の状況を大きく転換させたという点でも、画期的だったのである。

 以上の経緯を経て今日がある幹細胞の利用を巡って、倫理的に問題となるのは、以下のような点であろう:

1)iPS細胞がある今、生命の萌芽を犠牲にするES細胞研究(新たな細胞株の樹立)は、抑制ないし中止するべきか。

2)日本では事実上放棄されている、胎児由来の幹細胞研究をどうするか。海外では臨床試験まで進んでいるものもある。神経系の幹細胞候補としては、現状では最も有望であるとの専門家の意見もある。人工妊娠中絶をタブー視することで、胎児由来幹細胞の研究まで認めないのは、倫理的に妥当だろうか。

3)特定の遺伝子を組み込むとなぜ多能性幹細胞に再プログラミングできるのか生物学的な基礎が解明されていない現状で、iPS細胞の安全性とリスクを、どこまで評価できるか。臨床応用に進んでよい段階かどうか、リスクをどこまで許容してよいかを、どう判断するか。

4)未確立の幹細胞移植が医療現場で行われ、一部で深刻な被害を出していることに、どう対応すべきか。日本の現状では有効な管理ができない。法規制が検討されているが、再生医療だけを対象にすることに疑問を呈する意見もある。本来そうした公的管理は、新規に開発される未確立の医療技術全般を対象に行われるべきだからである。

 先端医療開発と、対象となる患者の人権保護をどう両立させるかが、当面の最大の倫理問題だといえる。

5)iPS細胞またはES細胞から生殖細胞(精子、卵子)を作成する研究が慎重な管理の下で進められているが、それが成功した暁には、生殖補助医療への応用が認められるか。たとえば、男性不妊患者の皮膚からiPS細胞を経て精子をつくり、あるいは女性不妊患者から同様にして卵子をつくって、人工授精や体外受精に用いてよいか。

 多くの期待が寄せられる幹細胞医療の研究開発を適正に進めるためには、規制緩和だけではいけない。推進に向けた功利主義的な考え方に対し、どのような医の倫理を対置するべきか、検討する必要がある。