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<読売新聞社賞>
「受け、継ぐ命」
藤島 恵子(39) 千葉県袖ヶ浦市・農業

 私が二十二歳の夏、五十二歳の父が、がんで倒れた。母は私が高校生の時、この家を去っており、頼れる人はいなかった。

 父は私が小学生のころから、飲酒が原因の胃潰瘍かいようで何度も入退院を繰り返していた。父はそのたびごとに、農業を営むわが家の畑を、生活の為に切り売りしていった。

 入院手続きをしながら私は、好きになれない父の面倒を、どうして私が見なければならないのかと、いら立つ気持ちを隠せなかった。

 六時間半かかった父の手術の終了後、私は父に会うために、ICUに入室した。父以外の患者さんは居ない。ガラス張りの隣の部屋では、看護師さんたちが忙しそうだ。

 おずおずと父に近づくと、T先生が現れた。「娘さんだね。お父さん頑張ったよ。もう気がつくころだから、呼んであげなさい」白衣の腕を後ろ手にしたT先生は、四十歳くらいだろうか。その体形と同じような、大きな張りのある声で、私にほほ笑みかける。

 私は言われたとおり、父に声をかけた。「ねえ、ねえ! ねえってばぁ」

 その時だ。パンと誰かが私の肩を、厳しくたたいた。驚く私が振り返った先には、T先生がいた。「何がねえですか! お父さんでしょう!」銀ぶち眼鏡の奥から、大きな目を更に開き、私を見つめている。いつの間にか父を軽べつし出していた私は、父を、ねえと呼んでいたのだ。私は、T先生の顔をにらみながら思った。(どう呼ぼうと私の勝手でしょう)

 私は無言で父の方を向き直り、もう一度、父に呼びかけた。「ねえ、聞こえる? ねえ」。するとまた、T先生が私の肩をたたいた。「お父さんに向かってなんですか!」

 その時、父がうめき声をあげた。「う〜ん。生きてるかオレ」「うん……」。私たちの会話を邪魔すまいと考えたのか、T先生はそのまま、父のベッドを離れた。

 その後、父の入院中、T先生は快活に私に話しかけて下さった。「もっとお父さんと話してあげなさい」とか、「お父さんは今日、つらい検査を頑張ったんだよ。ねぎらってあげなさい」などなど。すべて、主治医として父を思いやる言葉だった。だが「自分が一番苦労している」と思っていた私は、T先生の言葉を素直に受け止めることが出来なかった。

 そんな時、T先生のうわさを耳にした。重い痴ほう症のお母様を介護されているとの話だった。「お母様の介護、大変でしょう」と声をかけられると、T先生は、にこやかに答えられるそうだ。「僕がここに居るのは、父母のおかげだよ」

 この話を耳にした時、私は自分のいじけた心根に気がついた。(私はたった一人で生まれ育ったと、思っていたんじゃないか)。急に「お父さんと呼びなさい」と、T先生にたたかれた肩が熱く、痛くなった。

 そのころからだ。私が父に優しく接することが出来たのは……。父は退院できたが、余命は一年余りと宣告された。私は、交際中の男性との結婚を決めた。「最後の親孝行をしよう」と、彼が言ってくれたのだ。

 離れて暮らす母も、思い切って結婚式に招待した。結婚式で私が、「お父さん、お母さん。私を生んでくれてありがとう。二人がいたから、私がいます」と心から言えたのも、T先生のおかげだった。

 私が結婚して二年半後。父はこの国立病院で他界した。女性の看護師さんたちが、父の最期の支度をして下さる間に、私はT先生にあいさつに行った。何日も前から父の死を覚悟していた私は、不思議に落ち着いていた。先生は書類に向かい、忙しそうだった。父が死亡した旨を簡潔に話し、私は深々と頭を下げた。頭を上げた私の前に、先生の泣き顔があった。眼鏡の奥の潤んだ瞳が、私を見つめる。

 急に、その姿がぼやけた。私の瞳から涙があふれた。父の死を涙してくれる人がいた。しかも病院にいた。ありがたい気持ちで、胸がつぶれそうになった。嗚咽おえつし震える私の肩を、T先生は何度も優しく、大きな手のひらでたたいてくださった。

 病室に帰ると、父の最期の支度はすっかり終わっていた。看護師さんたちも涙し、温かいねぎらいの言葉を私にかけてくださった。あの激務の中で、父と私のけんかを笑顔で仲裁してくれた、担当の方々だった。

 こんな大病院での死は、日常茶飯事のはずだ。生死に対する思いもマヒして当然との誤った認識を、私は心から恥じた。

 その夕刻、語らない父と病院を後にした。車に揺られながら私は、胸の上で固く握られている父の手を、シーツの上から探った。(ありがたかったね。とうちゃん……。ありがたかったね)私はそう、心のなかで父に話しかけた。


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