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<アメリカンファミリー介護賞>
「夢の階段」
島田 美智子(55) 香川県丸亀市・主婦

 医師が太鼓判を押すほどの健康体が父の自慢であった。しかし、数年前から脳は委縮の一途をたどり、今年三月に自宅の庭で転倒して腰の骨を痛め、齢(よわい)八十八にして初めて寝込んだのをきっかけに、痴ほう症状は一気に加速した。

 安静期間をとっくに過ぎてもベッドから離れようとせず、無気力な抜け殻同然の姿であった。リハビリしようと声を掛けても馬耳東風。かつての温厚さは消え、よくどなり、卑屈になり、うそまでつくようになっていた。何とか以前の父らしさを取り戻してほしい……母と私は気をもみながら飴(あめ)と鞭(むち)を使い分ける日々であった。そんな私たちの上に、ふとしたことから一条の光が差し込み始めた。

 ある日、字を書くことが得意で日記に手紙にと筆マメな父であったと思い出し、子供たちに手紙をかくことを勧めてみた。三十分と座り続けられなかった父が、夢中でペンを走らせること一時間――。かすかな希望に心が躍った。

 それから間もなくのある夜の食卓。夫が昔話を父に持ちかけた。呼びかけに無反応で、家族との会話のキャッチボールがうまく交わせなくなっていた父の目に、生気が戻った。まるで別人のように冗舌になり、声をたてて笑い、母と思い出話を語り始めたのである。

 一時間は瞬く間に過ぎ、和やかなムードが満ちていた。驚きと喜びの目を見張ったのは私たち。翌日から、食後のひとときがわが家のルーツを皆でたどる恒例のひとときとなった。しかし「何でも聞いてくれ」と頼もしい口調の日もあれば、「あんばいが悪いけん勘弁してくれ」とそそくさと引き揚げる日もあり、がっかりする一方でホッとしている私たちがいた。

 驚かされることは止まらなかった。訪れた父の弟が、話の流れから冗談めかして「兄さん、自叙伝でも書いてみたらどうなぁ」と勧めた。弟が帰ると、何と「早(はよ)うノート買(こ)うて来て」とせかすのである。それからはノートに向かうのが日課となった。書いては声に出して読み、また書くを繰り返す。周りの雑音など一切意に介さぬ集中力で、長い日は二時間座り続けた。腰の痛さなど雲散霧消の風であった。ちなみに書き出しはこうである。「菊池寛の文豪をまねて筆をとってみたがねっから文章が浮かんでこない。エエイ仕方がない愚作で行こうと決心して取り掛かったのがこの作品である。何事も辛棒して読んでくれ給へ……」。

 誤字脱字、旧かなづかいなど何でもありの人生史は、まだ知り得ていなかった父の足跡、心の軌跡を浮き彫りにしていた。それまでの父が書いたとは思えぬ文章の確かさに、また思わぬ形で残存能力を発揮してくれたことに、心臓の鼓動が高まり、あふれるものがあった。自叙伝が完成した暁には私が本にしてあげるよと伝えたら「本になるんやったら、なんぼ事実でも他人の悪口は書けんなァ」と真顔で心配する。傍らで聞いていた夫が、「まぁまぁお父さん、ベストセラーにはならへんやろうきに、心配せんと何でも書いてやー」と笑いを殺して投げ返す。聞こえたのか聞こえぬのか、「ほうなー、本にしてくれるんなー」と顔をほころばせる。父にも一つ、この時から夢なるものが生まれたようであった。

 語りべとしての父を見ながら、ある夜、唐突に夫が言った。「お父さん、昔住んどった大阪の境川へ行ってみるんな?」。驚く母と私を尻目に父が応える。「連れて行ってくれるんな? 行ってみたいなァ」。これで決まり。母と結婚すまでの二十数年間を、商いをする両親と暮らした大阪である。そこへ再び行けると思うだけでみなぎるものがあるのか、戦災で焼失し昔の面影はない地でも、「川は変わっとらん、見たら分かる」と声が力強い。二つ目の夢の誕生である。私たちも格好の脅し文句をつかんでいた。「お父さん、寝るばっかりしよったら歩けんようになって、大阪には行かれへんでー」

 既に相当下りてしまった階段を、私たちというつえと共に、やっと少しずつ上り始めた父ではあるが、時にそのつえの叱咤(しった)激励が煩しくなり、「自由にさせろ」とどなる。母と申し合わせただ見守るだけにすると、結局その日中は七時間もひたすら眠り続けた。父の自由とは、存分に眠れることであった。うつろな目が、父の未来は火を見るよりも明らかだと物語っていた。父の幸せは必ずしも私たちの思うそれとは同じではないかも知れない。そう思う時、胸が痛み揺らぐ私たちであったが、その日の父は私たちにやるべきことを確信させてくれた。

 階段は長そうだ。お互いに息切れしないように、うるさがられながらも、「お父さん」コールを合唱し、太陽になったり北風になったりしながら、父のぶ厚いマントを気長にはがしていこう。ぶつかり合ってにぎやかに、濃密に暮らしていこう。せっかくの家族なんだから。

 ほらほら、また、そこのいすで居眠りしているお父さん!「ほんまに大阪へ行く気ぃあるんなぁー」


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