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<佳作>
「試練を越えて」
河崎 瑞枝(73) 北海道小樽市・無職

 例年になく厳寒だった昨年の二月、「治療をしないでいると、後悔しますよ」。

 総合病院に通院していたある日、主治医から、複数の膠原(こうげん)病で不治の病であることを、それとなく告知された。

 入院治療を、と親身になって勧めて下さったが、私は多くの薬に副作用の強い体験をしているので、理由を述べて辞退した。その時、哀れむようなまなざしで言われた言葉だった。

 熟慮の末、往診をする整形外科医を紹介していただき、在宅介護に切り替えることにした。

 全身の関節痛やアトピー性皮膚炎のかゆさのため、熟睡ができなくなり、食欲も気力も失われ、九キロもやせてしまった。

 うがいをするとのどが裂けるような痛みが走り、声がかすれて歌も口ずさめなくなった。うれしいときは朗らかに、悲しいときはハミングで歌っていたのに、ショックだった。

 無駄な延命治療を避けるため、日本尊厳死協会に入会して、会員証を往診の医師に提出したところ、受容されて、温かく見守っていて下さったのも、うれしかった。

 身辺整理を済ませ、食器や衣類はバザー用に寄贈させてもらい、年にも不足はない、と永遠の旅立ちを穏やかな気持で待っていた。

 ところが数ヵ月後、医師から「膠原病に関係のある検査結果はまだ異常値ですが、薬を使わなかったので副作用もなく、肝臓、腎臓、心臓、肺も異常ありません」との説明があった。医師が帰られてから、「こんな体で生きなければならないの……」。ベランダのガラス越しに、夕日が稜線りょうせんに沈む光景をぼんやりと眺めていた。

 玄関のチャイムで我に返り、訪問看護師のYさんにその時の心境を話すと、私の希望も入れて、心機一転、体が不自由でも生きていくための計画を、プラス思考で立て直してくれた。

 人間の自然治癒力を信じて、まず体力をつける。そのためには、栄養のバランスのとれた食事にして、よくかむこと。胃液の分泌をよくするために好きな音楽をかけること。歩けるようになったら、デパートの食品売り場で、カートにつかまり、ふらつく体を支えながら、歩行訓練のリハビリに励むこと。

 一行でもいいから日記をつける、などと話し合い、実行しているうちに元気が出てきた。書くためにベッドに置く、机代わりの段ボール箱に、私の藍あい色のエプロンを切って張るアイディアを提案すると、Yさんはすぐ作業に取りかかり、仕上げてくれた。

 二日後、Yさんは前触れもなく急いできた。ラジオの深夜番組で、膠原病やがんの患者さんがストレスを上手に乗り越え、笑って過ごしているうちに症状が軽くなったり治ったりした、という体験談をお医者さんが放送していたのを聞いて、少しでも早く私に知らせたくなって、休日なのに来てくれたのだった。

 「まさか、笑って病気が治るなんて……」と、一瞬思ったが、医師の名前と病院の所在地のメモを前にして、真剣に説明をしているその姿に心を打たれた。弱気になっていた私を、こうして支えてくれたりもした。

 見舞客と会話をしていると、かすかなうなずきにも首が痛くなり、起きていられなくなった。「なぜ、こんなおかしな病気になったの?」と、ほおを伝わる涙をぬぐおうともせずに、自問自答していた日々もあった。その時もYさんは、私の苦痛を察して面会謝絶の札を書いて、居間の入り口に下げてくれたのだった。

 二人で名前をつけた「藍色の文机」はギャッチベッドの右脇に置き、今も読書や記録に重宝しており、肉親がそばにいるような愛着を感じている。

 歳月が経過すると、病気の特性も分かり、それぞれの症状に対応できるようになった。例えば、痛みやかゆみは、好きなテープを聴いたり、読書に集中して気を粉らわせるなど。ストレスも、散歩と談笑に切り替えてから、体力がついて、関節の痛みも軽くなり、熟睡もできて、体重も健康時に戻った。

 これも、Yさんの豊富な知識と、誠実な人柄による思いやりの指導のお陰である。訪問介護の笑顔と、陰ひなたなく働く姿にも活力をもらった。

 そして、往診の医師の「治療を一切していないのに、膠原病の血液検査の結果もこんなによくなるとは、予想できなかった。奇跡ですよ」との励ましの言葉は、私に頑張る意欲をもたせてくれた。

 一人暮らしの私が、心を開いて何でも相談できたのも、患者として何よりの幸せだった。

 このように、奇跡の回復ができたのも、私の周囲の医療関係の方々が、親身に接して下さったお陰と、心から感謝している。


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