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<佳作>
「心の医療」
田 郁子(44) 福島県郡山市・主婦

 「終末医療は、つらいです。家族の方はもっとつらい。お母さんの在宅ケアを私がひきうけたときには、最期は、病院にもどられてしまうかと思っていました。よくがんばりましたね。自分を責めてはいけませんよ」と、I院長は声をかけてくださいました。でも私は、つらくて悲しくて胸が張り裂けそうで、涙がとまりませんでした。

 母は、家の近くにある総合病院に二十数年間通っていました。半年ほど体調がすぐれず、検査をしたところ、医師より胃全摘手術をするように告知されました。

 真っ白に雪が降り積もった朝、母は手術をうけました。手術を終えてHCLに戻ってきた母は、とても小さく痛々しくみえました。しかし、手術後三日目より歩行訓練をはじめ、桜の花の咲くころには家に戻ることができました。夏は家族と共に家で過ごすことができましたが、秋には体力がおちはじめ、再び入院となってしまいました。母は、点滴をしていたので体力がもちなおしたようにみえましたが、病魔は確実に体をむしばんでいました。

 病室の窓からは母の家がみえました。前回は、この家をみることが励みでした。しかし、今回は、「病室の窓からみえるわが家は、すぐそこにみえるのに、その距離ははてしなく遠い」と、悲しく話をするばかりでした。もう母を家に帰してあげることはできないのかと思っていたとき、医師より在宅ケアの話をききました。

 母を家に帰してあげられると思うと、私はすぐに決心しました。でも、私の心の中は不安と心配でいっぱいでした。介護の経験もなく、たった一人で母をみることができるのだろうか。それでも私を決心させたのは、病室ではなく家で母に過ごさせたかったからです。

 木枯らしの吹くなか、母は退院しました。母のベッドは介護用ベッドに変わり、庭がよくみえる位置に移動されました。ベッドの傍らには点滴が下げられ、そばには医療器具がおかれていました。そんな部屋でも母は家に帰れたことを喜んでいました。台所に行ったり、リビングで家族と話をすることもできました。

 母を支えるために、クリニックから看護師さんとN先生とI院長が来てくれていました。母は大正生まれで、我慢強く弱音を吐かない人でした。そんな母に看護師さんは、「我慢しなくていいのよ。つらいときはつらいといいましょう」と、言ってくれました。今まで病院では、がんばりましょうと言われていた母にとって、それは心に届く声でした。彼女は母の質問にいつも誠実に答えてくれていました。そんな彼女を母はとても信頼していました。いろいろな話をしたり、笑ったり、母が落ち込んでいるときは三人で涙を流したりもしました。彼女には母の気持ちがよくわかっていました。彼女は胃を切除していたのです。

 N先生は定期的に診察に来てくれていましたが、I院長はいつも突然やってきていました。朝早くやお昼休みだったり日曜日だったりと、時間の都合をつけて来てくれていたのです。I院長がくると母は不思議と元気になりました。I院長が話す体験を母はじっと聞いていました。I院長もまた胃を摘出していたのです。

 十二月に入ると母は、部屋からでることができなくなってしまいました。ベッドから起きあがる回数も減っていき、横になっている時間の方がだんだんと多くなってきました。母は、看護師さんや先生がくると、それぞれから少しずつ元気をもらっているかのようでした。私は、母に気づかれないように、先生や看護師さんの前で泣かせてもらいました。そのころ、I院長からは母の容体は良くないと告げられていたのです。

 冬休みに入り姉の家族もやってきて、にわかに家の中がにぎやかになりました。母は時折全員を部屋に集めたり、姉や私の子どもたちを一人ずつ呼び寄せたりしていました。先生や看護師さんがくると自然と全員が集まってきて母の容体をいっしょにみました。いつも誰かが母のそばで過ごしていました。

 十二月三十一日。家族みんなの中で、母は最期をむかえました。

 もし、私が医療従事者であったら、もう少しだけ助けることができたかもしれない。もっと安らかにしてあげられたかもしれないという思いで涙がとまらない私に、「ほとんどの方は、最期を病院ではなく自宅でむかえたいと思ってらっしゃる。けれど、それができるのはほんのわずかな方だけです。お母さんは、それができたのですよ」と、I院長は言いました。

 母が亡くなって二年がたとうとしています。私は母の死からまだ完全に立ち直ってはいません。今でもI院長の最後の言葉は、私の心の支えです。


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