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<入選>
「母が壊れていくとき」
涌田 哲也(68歳) 奈良県大和高田市・自由業

 母が壊れた・・・=B瞬間的にそう感じたのは、母の85回目の誕生日を祝って間もない晩秋の夜のことだった。

 仕事から帰ってくる末息子の私を、いつも妻と二人で得意の手料理を幾種類も食卓に並べて、三人の孫たちに囲まれ、自分勝手な昔語りを楽しんでいた母に、いつもとは違う気配を覚えてゾッとした日のことを、今でも鮮明に思い出すことがある。

 空ろな目。笑顔もみせない。妻に問うと、「今日一日中、こうなの・・・」だそうな。

 明治生まれで、大正・昭和・平成と、六人の子供たちを必死の思いで育ててくれた気丈で気位の高い母が、たった1日で人間が変わってしまったかのように私には見えた。

 妻に言わせると、この1年程の間には時々こうしたことがあったという。

 「あなたに余計な心配をさせたくなかったから言わなかったの・・・」と妻。

 早くに連れ合いを亡くしてから、女手ひとつで私たちに自分の人生のすべてを捧げてきた母。

 なぜか末っ子の私とうまが合うのか、兄たちや姉よりも私たち夫婦との生活を望んだ母。

 私の三人の息子らも、「おばあちゃん」「おばあちゃん」と慕い、近所や周囲からもうらやましがられる我が家を、私は何よりも誇りとしていた。

 長い営みの間には他人には話せない家庭内での葛藤も無くはなかったが、話し合うことでお互いを許し理解もして、まずまずの家族を構成してきたように思う。

 80半ばを過ぎても、私には母を世間の年寄りと同じに考えたことなど全然なかった。

 老いたとはいえ、あれだけ毅然としていた母が、まるで急な坂道を転げ落ちる小石のような速さで豹変していった。そして、思いもかけない異様な行動をとり始めたのだ。

 痴呆・・・=Bそんなことは考えたくも思いたくもなかった。

 例えば、花瓶に生けてある花をもぎとり、障子に挿してみたり、仏間の畳のへりを何時間でも指先でなぞっていたり、また、たった今食事をすませたばかりなのに、「お食事は、まだ?」と、空腹を訴えるなどのことが続きだした。そんな一年余りが過ぎて、私はできる限り母の傍に居てやりたくて、仕事の量も少しずつ減らし、2年目を迎えるころには、完全に母の専属介護人になっていた。

 たまに見舞ってくれる兄や姉たちさえ、一体、どこの誰か判断がつかなくなったのは3年目の終わりごろだったろうか。

 学生だった私の三人の息子たちも、自発的に看護に参加してくれたお陰で、私の気持ちもさほど荒まずにすんだと思う。そんなある日、それぞれの持ち場を決めようと考えた。

 入浴と食事の世話は主に私の担当で、家族の中では、割合ラクな分野だった。

 誰が言い出したわけではなかったがおばあちゃんは病気じゃないんだ。赤ちゃんに戻ってしまったから手がかかるだけなんだ。おばあちゃんはかわいいと思えばいいんだよ=B「かわいい・・・」、そう思えれば、どんな世話もしてあげられる。これがみんなの心だった。

 口移しで何でも食べさせてあげたせいか、体調はすこぶる良好。でもその代わり、少しでもこちらが気を抜くと、いつの間にかどこかへ行ってしまい大騒動ということも度々だった。徘徊が始まったのである。

 母が壊れた・・・≠ニ感じたあの日から4年がたったころ、床に就く日が多くなり、立ちあがる気力もなえた母と一緒に入浴したとき、母は私にこう言った・・・お父さん・・・。

 ぽつりと言うと笑ってみせた幼児のような母の顔。私は、その夜一人で泣いた。

 それから半月余り後、母との別れの刻が遂に訪れたのである。

 痩せて小さくなった母を抱き起こして口移しでお茶を含ませた時、私のほおを細い指でなでながら母はつぶやいた。「あり・が・とう・・・」。それが母の最後の言葉となった。

 あれから幾年過ぎたことだろうか。たった4年余りの母の介護だったが、この介護をとおして家族の結束はより強まり、独立した二人の息子たちや、私たち夫婦と一緒に暮らしている息子夫婦・孫たちも、平凡ながらも幸せな毎日を送っている。この穏やかな日々は、亡き母が置いていってくれた私たちへの小さなプレゼントだろうか。

 老い≠ヘ誰にも訪れる。その時、家族はどのようにそれに立ち向かうか、どう受け止めるかが、みんなの幸・不幸を左右すると思う。老いは決して病気ではなく、家族や周囲の人々の愛ある思いやり≠アそが最高の良薬、そして医療であると私は信じる。


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