日医ホーム心に残る医療 >>サイトマップ  

<入選>
「心に残る医療」
松村 由江(44歳) 広島県広島市・主婦

 12年前、我が家の第二子・翔馬は1026グラムの極小未熟児で生まれた。春に生まれた我が子が4か月もの未熟児センターでの入院を経て我が家に帰って来たのは、ミンミンゼミの鳴き声がツクツクボウシに変わったころだった。

 退院してもわずか2600グラムの我が子・・・。この日から夫と3歳の長女と私の平和な生活は180度変わった。

 とにかくよく泣く赤ちゃんだった。朝も昼も夜も・・・一日中泣いている。眠りは浅く、少しの物音で目を覚ます。体はいつもえびぞり状態。まるで快の状態をまったく知らないようで、翔馬の世界は不快しかないようだった。・・・まるで宇宙人が我が家にやって来たような錯覚すら覚えた。そして体が硬い・・・。長女の赤ちゃんの時に比べても服の脱ぎ着が難しい。

 一日中抱っこして過ごす日もあった。長女にも、「静かにしなさい」としかることが増えた。「たまには私も抱っこしてよ」。泣き叫ぶ長女・・・。気が付いたら三人で泣いていることもあった。

 私は育児書や医学書を読みあさった。「保育器で育てられた赤ちゃんは情緒不安定。まわりの物事に敏感でよく泣く子が多い」と書いてあった。・・・そうか、そうなんだ、自分に言い聞かせる。しかし、次の文章が頭を離れない。「仮死状態で産まれた赤ちゃんは、体が硬く、反り返りの症状が見られる場合、一番に脳性まひが疑われる。音に敏感・神経過敏でよく泣く」。すべてが翔馬にあてはまった。

 脳性まひという病名は、とてつもなく恐ろしいものに感じられた。私にはまったく受け入れられない現実。この子が脳性まひのはずがない。障害児のはずがない・・・。何かの間違いだ。私はもう自分を支えることすらできなくなっていた。

 隣県から私の母が来てくれて、三人で療育センターに行った。行きのタクシーの中でも翔馬はみごとに泣き続けた。二階の診療所の待合室でも体を反り返らせて泣いている。年配の看護師さんも私の母も、翔馬の泣き声と私のパニックさにおろおろするばかりだった。

 やがて名前を呼ばれて診察室へ入った。センター長で小児科のK先生が、立って私たちを出迎えてくれた。

 「先生、体が硬いんです。脳性まひではないですよね」。私は涙を浮かべて、「違う」の一言だけがかえってくるのを待った。K先生は、「ゆっくりみてみましょうね」とだけ言って、翔馬を診察台に寝かせた。

 「はいはい、どうした?」
 K先生は翔馬に話しかけて頭をなでた。そのとたん、今まで顔を真っ赤にして泣き叫んでいた翔馬はぴたりと泣きやんだ。・・・翔馬は魔法にかかったようだった。K先生のそばで、翔馬は私がこれまでに見たこともない、穏やかな顔をした。「うんうん、体が硬くてしんどいね。リハビリ始めようね」。K先生が静かな声で話しかけると、翔馬は安心しきったように眠ってしまった。

 「先生、障害が残るんですか?リハビリしたら普通の子になれますか?」私は必死で答えを求めた。しかし、この日最後までK先生はわかりきっているはずの病名を私に告げることはなかった。そのかわりにこう言った。

 「お母さん、一年先、十年先のことを考えて毎日落ち込んで生活するのと、遅いなりにも少しずつ成長していく我が子を見ながら、楽しく生活するのと、どちらの人生がいいですか?」。パニックの私はもちろん答えることはできなかった。ひとごとだから、そんなこと言えるんだとまで思った。

 しかし、それから十二年間、私は何度もこの言葉を思い出した。そして、いつのまにか障害のある我が子のゆっくりの成長を楽しんで、前向きに生きている自分がいた。あの日K先生は、翔馬に目に見える何の治療もしてくれなかった。しかし、今、あれ以上のすばらしい治療はなかったのだとしみじみと実感している。

 私は未熟児で生まれ、障害児である翔馬を受け入れることができなかった。それを翔馬はちゃんとわかっていたのだ。だから泣き続けるしかなかった。しかし、K先生は翔馬のすべてを受け入れ、認めてくれた。K先生の前では翔馬は泣く必要がなかったのだ。このことに気付いたのは、随分あとになってからだったが、今はK先生の魔法が私にもかかっている。障害のある子のいる我が家は、けっして不幸ではなく、私はこの人生を幸せだと感じられる。

 最高の医療は、人の生き方・価値観・幸福観までも変えてくれるものだと、退職されたK先生に今でも心から感謝している。


BACK >>>

  日本医師会ホームページ
http://www.med.or.jp/
Copyright (C) Japan Medical Association.
All rights reserved.