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一般の部
<入選>

「A先生と母」
柴田 えみ子(58)北海道旭川市・主婦


 千葉に住む母は末期ガンで余命幾ばくもなかった。自宅で最期を迎えたいと希望する母のため、主治医のA先生に相談した。病院と自宅が近かった事もあり先生はやってみましょうとおっしゃって下さった。女医さんだった。急な時でも決して嫌な顔をせず常にやさしく、また、適切な処置をして下さるA先生に、母は全幅の信頼をよせていた。

 そのような中、食事が喉を通りにくくなった事があった。入院し、栄養剤を点滴する方法をA先生は提案したが、母は体の機能が弱れば食べられなくなるのは当たり前で自然な事、治療はしたくないと言った。八十歳という高齢と末期ガンという事実を母は冷静に受け止めていた。母の意志をくみとり、先生は痛みなど不快な症状に対応するが、その他の事は母の意志を尊重する旨を言い、入院を強要しなかった。多忙を極める勤務の中、時間を作っては顔を出して下さるA先生を心待ちにし、母は身だしなみを整え、ベッドの上でお花を活けて待っていた。病院の病室ではないから、またA先生という心強い後ろ盾があったから母は、死への準備を充分にする事ができた。九州に住むきょうだいを呼び、昔話に花を咲かせ「お世話になりました。ありがとう」とおみやげまで持たせた。好きな卓球は歩けなくなるまで続け、ボケ防止と言って毎日ピアノを弾いた。タンスを整理し、障子を張り替え、かたみ分けも済ませた。

 入院をしていたら、どれもできなかったにちがいない。母が最後まで痛みを訴える事なく穏やかだったのは、やはりどんな時でもすぐ飛んで来てくれるA先生の存在があったからだと思う。身内がどんなに親身に看病したところでこの安心感は与えられない。

 八十歳の母が自分の意志を通そうとする、それに応え面倒な在宅患者を抱え、さらに多忙さを増したであろうA先生。しかしそのようなところは微塵も見せず、明るい笑顔でやって来る。母の手を握り「今日は顔色がいいわね」と言い、母の話をゆっくり聞いている。

 私は「先生は何か特別な信条をお持ちなのですか?」と聞いてみた。

 「いいえ。何も。ただ私が患者だったらお母さんのような生き方を選択したいと思います。お母さんの選択を尊重します。現在の医療の発達は、昔のように自然に死ぬ事ができなくなっています。終末期に多くの医療を施されるのが当たり前だからです。その結果、患者は苦痛を増し家族と話す事もできないまま亡くなります。お母さんの意志は決してわがままではありません。人は生まれた時から自分で意志決定をしながら人生を歩みます。それなのに最も耀いて安らかに締めくくりたい終焉を、なぜ自分の意志ではなく家族や医師の手にゆだねてしまうのでしょう」

 A先生は母のふとんをそっと掛け直すと、看護師さんと帰って行かれた。私はしばし電気に打たれたように動けなかった。何よりも命を優先し、助ける事を使命とする医者が、入院も治療も拒否する患者を受け入れ、さらにその選択を精一杯支えようとしている。胸がつまった。母がもう起き上がれなくなってから知った事だが、A先生は母が保母として働いていた頃の園児だった。そして今A先生のお子さんは私の弟のお嫁さんの教え子として小学校に通っている。そんなつながりが楽しい話題となり母をずいぶん喜ばせた。A先生が地域の人で、コーラスや卓球の仲間と同じように昔話ができる事は、母にとってはどんなに楽しいことだったろう。

 一時期私は母を私の住む旭川に呼びよせ、大きな病院で手厚い看護を……と真剣に考えた事がある。しかし、それは大きな間違いであることに気がついた。自分が生きた思い出いっぱいの土地でA先生に見守られて全うする生こそ幸せなのだとしみじみと思った。「いざとなったらA先生がおるったい」と言っていた母は、三か月と言われた命をなんと一年三か月も生きた。体は見る影もなくやせ細っていたが、目は耀いていた。亡くなる数時間前まで話をし、その望み通り「木が枯れるように」スーッと息を引きとった母。桜の花弁の散る四月十日だった。

 「見事でしたね」

 A先生のことばの前に私は深く深く頭を下げた。人としての尊厳を重視して下さったA先生と、確固とした意志宣言を表明した母。

 私は今、母を目標にいつかは訪れる死への準備を、ゆっくり始めている。願わくばその最期の時、A先生のような先生に出あえますように……と祈りながら。


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