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一般の部
<入選>

「忘れられない手術」
森 芳江(65)東京都板橋区・無職


 宝物にしているノートがある。これは平成十二年四月に両膝半月板損傷の手術のために入院した日から退院するまで、四十日間の記録である。医師直筆のメモも貼ってある。今、読み返しても昨日のことのように懐かしい。

 私は手話や筆談を必要とする聴覚障害者である。聴覚障害者といっても先天性と後天性とでは障害の程度に差があり、コミュニケーションの手段も手話、筆談、読話等、十人十色だ。

 私は言葉を習得したあとの中途失聴者なので、話すことはできるが聞くことが難しい。この障害は目で見て判断できないので非常に誤解されやすい。例えば、相手の話す内容が分からない(聞こえない)ために、すぐに答えられない状態を「あの人は耳が聞こえないから話せない」と思う人は意外と多い。

 特に病院での対応は、コミュニケーションに障害のある患者は他の患者と比べて時間がかかるので事務的に終わることが多い。

 私が出会った整形外科のH医師は、初診時から耳の障害に理解を示してくれた。インフォームドコンセントも要領よく筆談して頂いたので納得のいくものだった。だから即座に、この医師に任せようと決められた。

 手術前の打ち合わせのときに「手話通訳がいた方がよければ手配しますが」と言ったら

 「いいよ。僕が筆談するから」

 「エッ? 手術しながら書けるのですか」と、言葉が出そうになったがのみ込んだ。どんな方法でやってくれるのだろうかと半信半疑だったが、裏技があるかもしれないと期待した。

 手術当日、手術室に入ってからの私は、左手に血圧計、右手に点滴が付けられた。まるで「俎板の上の鯉」いや雑魚そのものだった。麻酔は下半身だけなので意識はある。目の前はアーチ型のガードがあり周囲の動きは視野に入らない。何もすることがないので目を閉じていた。すると、助手が「目は開けていて下さい」といった。目が耳の代わりをするから閉じてしまうと万一のときに困るのだろう。

 麻酔が終わってしばらくすると、目の前にスケッチブックが差し出された。

 「今、手を触れているところが分かりますか」

 「いえ、どこに触れているのか分かりません」

 「それでは、これから始めます」

 周囲の雑音や会話が聞こえないのは幸いなのかもしれない。不安はあったが医師への信頼の方が大きかったので平静でいられた。

 どのくらいしたか定かではないが、H医師が目の前にいた。

 「こっちを見て」とモニターTVを指した。

 「ここが十字靭帯で悪くない、ここが半月板でかなり悪い……見える?」

 そして、スケッチブックには、「十字靭帯……よい、半月板……悪い、軟骨……悪い」のそれぞれに○印がしてあった。多分、事前に用意してくれたのだと思う。

 「あの、ヒラヒラしているのは何ですか」

 「これは軟骨の一部が剥がれた屑です。これが痛みの原因です。これから除去します」

 手術中にもかかわらず、このような対応をしていただけたことに感激した。また自分の関節内を初めて見た感動で安堵したのか目を閉じた。しばらくしてから肩をたたかれて目を開けるとH医師の顔が目の前にあった。

 「終わったよ。あとで説明に行きます」と言ったので「妹が付き添いで来ていますので説明しておいてください」といった。

 妹が病室に戻ってきたので「先生の説明を聞いてくれた?」と聞くと、「先生は『あんたに説明するより本人に説明するよ』といわれたよ」と、いささか不満顔だった。それを聞いた私は、手術室内でのことを妹に話したら、「そうだったの。そういう医師はめったにいないでしょうね」と感心していた。私は改めてH医師に尊敬の念を抱いたのだった。

 程なくしてメモを片手にH医師が来室した。メモによると、「内側半月板の後ろの切れているところを部分切除しました。……大腿骨と脛骨の軟骨が擦り減って壊れていたのです。今後さらに壊れれば、また手術(人工関節)になるかもしれません。明日から可能な限り荷重して歩いていいです。初めは松葉杖を使いましょう……」と細々と書いてあった。

 私の両膝は二度の手術によって半月板は普通の人の半分しかない。また軟骨も右側は摩滅がひどく再生は無理だそうだ。今後の生活如何によっては再手術が必要になるという。麻酔が切れた後の痛みは半端ではなかったので、再手術はしたくないと思っている。そのためにどうすれば良いかを聞いてみた。

 「一にも二にも大腿骨を鍛えて関節の負担を軽くすること。そして年に一〜二回くらい注射して滑りを良くすれば再発の予防になります。スポーツだったら水泳がいいですよ」

 あれから五年になる。アドバイスをしっかりと守っているせいか強い痛みはない。もし再手術が必要になったとしても迷わずH医師を訪れようと思っている。


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