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一般の部
<入選>

「我が家の元旦」
常盤香織(30)鹿児島県霧島市・公務員


 九つ年上の姉は、生まれつき左足が短く、歩くときはいつも高さの調整をするために、左足のかかとをあげて歩く。わたしは何度かこっそり試したことがあるが、これは想像以上に体に負担のかかる歩き方である。

 しかし、姉が歩く姿を見ても、ほとんどの人は、小柄な人だなという印象だけで、まさか片足のかかとを上げて歩いているなんて気づかないし、姉もつらいとは決して言わない。

 そんな姉の左足には、へそのようなくぼみがいくつか並んでいる。これは、以前、姉が受けた手術の跡である。

 母は、姉の足のことを自分の責任だと一人で背負い込み、地方に暮らしていても何の治療法もないと父を説得して、姉が生まれてまもなく東京へ引っ越しをした。

 生活が苦しい中で、毎日姉をマッサージに連れて行き、ボーリング手術も試みるなど必死だったが、願いは届かないまま時間が過ぎていった。

 ある日、ある新聞記事が母の目に飛び込んできた。札幌の大学病院で、足を長くするための新しい手術方法が開発されたという内容だった。わらにもすがる思いの母は、早速、その先生宛てに手紙を出したところ、先生本人から、連れてきてみてくださいという返信があったそうだ。

 検討の結果、手術をすることになり、仕事のある父を東京に残し、母は、小学六年生の姉と三歳のわたしを連れて、札幌での一年以上にわたる生活を始めたのである。

 幼かったわたしには断片的な記憶しか残っていないが、姉の入院生活はかなり過酷なものだったらしい。

 開発した先生自らの手術によって膝から下の部分に突き刺した数本の鉄の棒を手術後も定期的に回転させるという、聞いただけでも背筋がぞっとするような痛みを伴うものだった。

 技術が向上した今では、この手術によって治っている人がたくさんいると聞いたことがある。しかし、残念ながら、姉には思ったような効果は出ず、長い入院生活を終えて、わたしたちは東京へ戻った。

 母は、痛い思いばかりさせてしまった、学校にも行けなかったのにと、自分を責め続けた。それは二十年以上経った今も変わらない。それがわたしたちの母なのだと思う。

 でも、わたしは、母が取った行動は決して悔いることではないと思っている。いい結果が出なかったことは残念に違いないが、当時、日本で最先端の手術を受けたのだ。やれることは全てやったと言い切れるのではないか。

 退院してからずっと姉と母宛てに年賀状が届いた。手術を開発した先生からである。教授として講演会などで全国を飛び回り、忙しい中でも絶えることなく、元旦には必ず、我が家の郵便受けに届く。

 その年賀状をまるで家宝でも扱うかのように、家族全員で大切に読むのが、我が家の元旦の風景となった。

 宛て名は手書きでしっかりと書かれ、ユーモアを交えながら近況報告がびっしりと書かれた裏面の左上には先生の似顔絵も一緒に印刷されていた。まだ難しい文面が読めないわたしでもこの似顔絵を見て「お姉ちゃんの先生からだ」と分かるようになったくらいだ。

 「こんな偉い先生が、一人の患者のために年賀状をくれるなんてねえ。感心だね」とこの時ばかりは母も、自分は最善を尽くしたのだと納得したような穏やかな表情を浮かべた。

 もちろん、姉も毎年、先生への年賀状を欠かさず、数年前に先生の奥様から先生の訃報が届くまで年賀状のやりとりは続いた。

 姉は結婚し、二児の母となっている。二人とも野球に夢中で、部活動に励み、真っ黒になったユニフォームを洗うのが姉の日課となっている。土日のたびに試合の応援に行っては、もうとっくに姉の身長を追い越してしまった我が子のプレーを祈るように見つめ、時に涙している姉からは、自分の足のことでくよくよ悩む様子は微塵も感じない。

 一人の女性として成長していく自分の姿を毎年、先生に報告することができたことが、姉から先生への何よりのお礼となっていたのではないかとわたしは思う。

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