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一般の部
<入選>
「育てるのは私です」
大曲 実香(48歳)兵庫県西宮市・団体職員


 今から十七年前のこと。息子が生まれたころのことである。機嫌のいい、愛想のいい、誰にでもニコニコする子だった。しかし、四か月を過ぎたころから、昼の十二時を過ぎると毎日、火がついたように泣いた。どうにもこうにも手がつけられない程泣いた。目つきも異様だった。やがて疲れ果てて寝てしまうのだが、目が覚めた後はいつもの愛想のいい息子に戻っているのであった。

 「こんなことくらいで」という迷いはあったものの、近所の開業医I先生を訪ねた。その時の息子は運悪く(?)上機嫌で、I先生の診察にもニコニコ、看護師さんたちにもキャッキャと笑顔を振りまいた。いくら必死に訴えても分かってもらえないと複雑な気持ちでいる私にI先生は明るい表情で「首も据わっているし、背中の力もしっかりしている。丸々して機嫌もいい。おそらく心配ないと思うよ。でもね、心配だったらいつでも来なさい」と言って下さった。

 それから二か月。息子と二人の時間に私しか遭遇しないその出来事を、どんなに力説してもうまくは伝わらなかった。「一人目の時は神経質になりがちだから」とか、「泣いたあと寝てしまうのは眠たくてぐずっているだけ」とか……私もそうであればいいと思った。そう思いたかった。でも違う。なにか違う。そう毎日思っていた。悩んだ揚げ句、再びI先生のもとへ。穏やかに先生は言った。「誰が何と言おうと、育てるのはあんたや。お母ちゃんであるあんたが心配やったら毎日どないもならん。あんたが安心できるよう、納得できるようにしたらいい。力になってあげる」と、そして相談を重ね、希望する医療機関への紹介状をもらった。小児科専門のその病院で血液検査の結果を待つ間、慌ただしくなる雰囲気に不安を覚えた。即入院となった。しかし、その病院は満床。「ベッドが空くまで待ちます」と言ったが、「早い方がいいです」と言われ、やむなく紹介された病院へ入院することになった。不安な気持ちで二週間がたったころ、医師から告げられたのは、「病名は不明だが、生きられても七歳くらいまで、歩けるようにもならない、脳障害も現れる」ということ。原因は分からないが、結果がこうだと言われても……うそでしょ!? ショックで立っていられなかった。別の自分がドラマを見ていようだった。

 その日の夜、I先生のもとへ。とにかく話を聞いてほしかった。取り乱し、泣いてばかりの私にI先生はいきなり白衣の下のご自身のおなかを見せた。そこには大きな手術痕が。「以前、胃がんで手術した。お袋は夜も寝ないでずっと仏壇の前で拝んでくれてた。母親は有難い。けど、母親は一日でできあがるものやない。あんたもこの子の病気と一緒に母親になったらいい。泣いている場合やないよ」

 その後も相談を重ね、転院。そして現在の主治医と出会うこととなる。一年間の入院。日本でも、いや世界的にも症例の少ない疾患で、多くの薬と、定期的な血液検査が必要で食事の制限があるものの、元気に高校へ行っている。あの時I先生が「お母ちゃんが納得できるようにしたらいい」と言ってくれなければ息子の病気は分からず、高校生の息子は存在しなかっただろう。そして、全信頼をおける、今の主治医に出会わせてくれたのもI先生のおかげ。

 「医者は患者のことを分かってくれない」と言う人もいるが、医者とて病気は怖いし、医者のお母さんも、私と同じように心配で夜も寝られない。患者も医者を分かろうとしてないのかも知れない。人間はどんな職業の人でも、もとを証せば同じ「人」。I先生は「ドクター」である前に「人」として、「息子」として共に考えて下さった。

 激流を目の前にして、対岸からああしろ、こうしろと指図するのではなく、どうやって向こう側に渡ろうか、どうすれば少しでも安全に渡れるかをご自身の体験と知識とで考えて下さった。I先生から人として教わったことで、後に出会った息子にかかわる多くのお医者さんとの関係も良いものにできたのだ。

 I先生。「母親」はまだまだでき上がりませんが、息子は元気に生きています。


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