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一般の部
<入選>
「指一本の高度医療」
小林 正子(52歳)島根県川本町・主婦


 その日の空港の空はどんよりと曇っていた。気温は高く蒸し暑い。家族づれでごった返すお盆前のロビーを、私は左腕をかばうようにしながら歩いた。前腕部分に大きな動脈瘤があった。「破裂したら救急車モンだよ」と言われていた。「しかもこの動脈はシャント(血液透析をするために静脈と動脈をつないでいる)につながっているから手早い手術が必要です。血管外科のような手馴れた医者のいる病院に行ったほうがいいね」という状況で、T女子医科大学付属病院に向かうところだった。

 外来で私を担当してくれたのはH医師だった。紹介状を読み、診察すると、初診にもかかわらず次々と検査の実施。CTスキャンの検査までその日のうちにしてもらうことができた。「島根から来たって百回くらい言ってねじ込んだ!」と言いつつ、H医師は自らCT室に案内し、映像も確認して診断がほとんど確定した。検査が一気にはかどって喜んだが診断は診断。診察室で聞いたのはもしかしたら二つの手術が必要という言葉だった。

 「動脈瘤を取ると、すぐそばのこの血管(透析に使う)もひきつれたようになって針が刺しにくくなると思う。シャントをどうするかも考えないとね。今後相談して決めていきましょう」

 がっくり力が抜けたが、気をとり直して入院予約をし、羽田に向かった。家に着いた時はもう深夜になろうとしていた。

 動脈瘤ができたのは血液透析を始めて半年がたつころだった。血管に細いところがあり、血液の取れが悪いということで、血管拡張の治療をした。その時血管の内側に傷がつき、弱くなったその部分が伸びて膨らみ、ちょうど血管に風船をつけたような形で動脈瘤ができた。そこにも血液が流れ込むので、もし破裂したら大出血になる。これはもう手術して取るしか方法はない。現実を受け入れ、前に進むしかないことは分かっていたが、憂うつは増すばかりだった。

 外来から帰った翌日、早くも入院可能という連絡が入った。後で聞くと「あの動脈瘤をかかえたまま島根においておけないと思った」ということだった。スピード入院はH医師の計らいだった。

 早朝家を出て再び東京に向かった。私はこのとき二つの手術を覚悟していた。動脈瘤除去手術と新しいシャント造設手術。入院も長引くだろう。

 だが! 病室を訪れてくれたH医師から思いがけない言葉を聞いた。

 「あなたの動脈瘤は入り口が針の穴のように小さくて、しかも瘤の横のほうにあります。だからそこを押さえれば瘤の中に血が流れ込まないので血液が凝固して破裂の危険がなくなるかもしれない。そしたら手術して取らなくても良くなるんだけど……」

 手術しなくて済む?「え? センセイ、ウレシイ!」と思わず叫んだが、

 「いやいや、まだうまくいくかどうか分からないよ」というけん制球が来た。でも私にはなぜか、きっとうまくいくという予感があった。

 次の日、H医師は、動脈瘤の入り口になっている部分を指で押さえ続けてくれた。動脈瘤には血液が流れ込まず、血管には流すという、微妙な部分を探して、エコーで確認しながら二時間、そのままの姿勢だった。結果は、うまくいった。画面が動脈瘤の中が固まった様子を映し出していた。

 手術をしないで済んだ。これはまるで長い間抱えていた病が治ったかのような解放感と喜びだった。「実は本当にうまくいくとは思っていなかったの」とはH医師自身の言葉である。病棟のT医師にも「僕は切らないとだめだと思っていた」と言われた。「写真を見ながら(押さえ方を)シミュレーションしたのよ」という言葉のとおり、H医師はしなやかな頭で最善の方法を考え抜いてくれたのだった。もし手術をしていてもそれはそれでうまくいっただろう。高度医療を誇る大病院のことだ。だがしかし、私にはこの指一本の治療がずっと「高度医療」に思えた。ひとりの医者の柔軟な発想で、私は何の負担も無く、この難局を切り抜けた。

 翌日の夕方には出雲空港上空にいた。見下ろすと水田の美しい光景があった。あと二週間もすると、この風に揺られている稲穂は黄金色に輝き、収穫を迎えるだろう。豊かで平和な季節が巡っていく。

 透析という医療によって私は生かされている。この事実は変わらない。トラブルはまた起きるだろう。そこから逃げることはできない。しかし、まっすぐにだけ進む人生なんてありえない。遠回りしたり後戻りしたり、曲がりくねって進むのだ。多くの人の助けを借りなければならないけれど、さあ、私も実りの秋に向かって、新たな一歩を踏み出そう。充実した気持ちがからだいっぱいにみなぎっていた。


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