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一般の部
<日本医師会賞>
「人間力の治療を見た」
山口 年宥(64歳)愛媛県松山市・無職


  ガッシャーン、けたたましい音と共に親友のMが自転車ごと飛び込んで来た。

 「お前なにしとんねん」。思わず叫ぶ私に「俺真っすぐ走られへんねん」。とぼけた口調のMはすまなそうな顔で座りこんでいた。

 どうしたんや? 私の問いに、何が何やら分からんのやと答えるM。聞くと、ここ一ヶ月ほどふらついて重心がとれん、その結果真っすぐ歩けないとのこと。

 「お前それ普通ちゃうで、一回病院へ行って来いよ」。この一言に「そやな、どこの病院へ行こ」。Mは決心したらしい。私が経営する飲食店のお客さんK医師に相談の結果「すぐ来なさい」となり、K医師の勤務する公立病院へ急いだ。

 「小脳の細胞が減っていて、今のところ原因不明。それ故、治療法は確立せずかなり難しいものです」。私を別室に呼び、苦々しい面持ちでK医師が告げた。

 身寄りの無いMの兄弟同様として告げられた私は困惑し、果てしない絶望感を覚えた。

 Mとはお互い二十歳代前半から二十五年つきあっていた。別々の人生を……と一年ほど離れていた中、職場の高所から落ち大怪我をして帰って来たM。帰って来てしばらくは店を手伝ったりしていたが、すぐに仕事ができなくなり、私が用意していた住居でぶらぶらしてすごしていた。その頃医師に診せていたらと悔いたものである。

 半年の通院後に入院したM。「すまんな、何の役にも立てんと」。見舞いに行くたび、Mは涙をうかべ詫びるのである。「あほなこと言うな。俺と一杯飲むんやろ」。元気づけるつもりであったが、私自身どこか空虚で、寂寞感に包みこまれ、どうすることもできなかった。

 何回目かの見舞いのとき、驚きの光景を目にした。MがK医師と若い看護師にかかえられ歩行訓練をしていたのだ。命は助からないのになぜ? この私の疑問がいかに浅はかで、不謹慎なものであったか、一時間後のK医師の言葉で思い知った。

 「救えないMさんを救えるのは、一刻の生を与える事と考えます。それには俺も歩けると思わせるしか他に方法はありません。ただ私や看護師がいい加減にしますと、Mさんはそれを感じ悲しい目をします。真心こめて歩け歩けと励ますと、Mさんが心から有難うと言います。この有難うの瞬間がMさんの生の刻なのです。看護師をはじめ関係者にはできる限り、この心を持てと徹底しています」と話を締めたK医師。私は、ただただ頭を垂れるしかなかった。

 見舞いのたび小さくなっていくM。私はだんだん辛くなり病院への足が遠のいていたある日、急いで来てくださいと病院から電話。祈る思いでMの病室に入った。Mのベッドが空、えっという心境で見回した。ふと眼の端に映る人影、なんとK医師がMを抱きかかえ窓の外を見せている。「先生」。私は小声で呼びかけた。「Mさんは今、見えないものを見ています。君も一緒に見てあげたら」。より高くMを抱き上げ、K医師は遠くを見ていた。

 私が傍らに寄ると、Mはふわという風に目を開き薄く笑みをみせ、「すまんかったなあ有難う」。ほとんど話せない中、何度も繰り返した。

 「今がMさん一刻で最後の生でしょう」。K医師は大事そうにMをベッドに寝かせながらしみじみ言ったが、その顔は泣いていた。

 ここ二、三日だろうから会わせる人が居るならとの言を受け、元気な頃のMが、「三歳のとき別れたままの子ども、一度会いたいが無理やろうなあ」と言っていたのを思い出し、よし、会わそやないかとばかり、かすかに聞いていた手掛かりをもとになんとか捜しあて、奇跡の再会をぎりぎり間に合わせた。

 目に一杯の涙を浮かべ「すまんかった」を連呼し、Mは四十六年の人生を終えた。

 「先生、有難うございました」。私の謝辞に対し「いえ、力及ばず残念です」。きっかりした口調で答えK医師は自室へ歩を進めた。

 私はこのK医師のMに接する姿に感嘆していた。寝返りをうたせたり、何か聞こうと耳をMに近づける動作など、全てに真心そのものを感じとれたからである。

 新鋭機材や化学治療などが真っ盛りの医療界にあって「人間力の治療」を体験できたのである。ま、これもMのお陰てな事を思いながら「生を与えるため心から接する」という言葉とK医師の顔が、今も私の腹の底の底で生きている。


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