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一般の部
<入選>
「覚悟のありかた」
三橋 直樹(37歳)埼玉県所沢市・自営業


 癌である事実を、しかも手の施しようもない末期の癌であることを、父に伝えるべきか否か。それを決めなければならなかった。母と二人の弟、前の年に結婚したばかりの妻、そして、二十五歳という年齢だった私の五人で。

 その日、母と私は、父の病状について担当の医師から詳しい話を聞き、外科的な手術によっても、抗癌剤や放射線治療によっても、癌が治癒する見込みはなく、父の余命は三カ月から長くても半年だと説明を受けた。

 「ご本人に告知するかどうかは、医師の判断では難しいところです。ご家族が決めた方針のもとで、私たちスタッフは最大限の努力をします」

 私を除く全員が、告知に反対をした。どのようにしても死を免れないのであれば、知らないほうが本人の幸せではないか。意見を集約すれば、そういう方向性だった。私もそれに反対するほどの確たる見解を持っていたわけではない。

 しかし、私の心のどこかに、告知すべきだという動かし難い信念があった。告知は父が残りの人生を有意義に過ごすための不可欠な前提なのではないか。

 父が不在の家族会議。いつもであれば父が下すはずの最終的な判断は、長男である私に委ねられている雰囲気だった。私は自分の意思を通した。

 翌日、二人だけの病室で、胃潰瘍の可能性があると仮の病名を告げられていた父に、本当の病名を明かした。父はそれを聞いて、

 「やっぱりそうか」とだけつぶやいた。

 日が暮れかけて暗くなった病室のベッドの上に、私の前で涙を流す父の初めての姿を見た。

 「それで、あとどれくらいだ?」

 しばらくして父は、普段の威厳を取り戻して訊いた。

 私は事実をありのままに話そうと心を決めてきていた。だが、その言葉を耳にした途端、気持ちが揺らぎ、とっさに嘘をついた。

 「つらいかもしれないけど、抗癌剤と放射線の治療を根気よく続ければ、治る可能性が高いって」

 「わかった」

 と、父は私の目を見据えて言った。

 担当の医師とスタッフは、私たちの意をくんで、抗癌剤と放射線と痛み止めの治療にあたってくれた。だがそれも、父が日に日に痩せていくのを、食い止めることはできなかった。もともとが頑強な体格だっただけに、誰よりもその変化に戸惑ったのは父だったはず。

 ところが本人は、そのことに一言も触れることなく、治療の進み具合を私たちに事細かく熱心に説明し、足腰がよわるのが一番いけないからと言って、毎日一時間近く病院中を散歩した。退院後に必要になるであろう物を買いそろえておくようにも父は指示した。

 実際に、長くてと言われた半年を過ぎても父は持ちこたえていた。私たち家族は時折、ひょっとしたらこのまま奇跡的に治ってしまうのではないかと真顔で話をしたりした。

 そんな矢先だった。初秋の早朝、病院から電話があり、駆けつけた。

 ベッドの上の父は呼吸をするのがやっとの様子で、目もほとんど開かないようだった。それでも喉の奧からどうにか声を出し、母に感謝の言葉をかけると、弟二人には、「お母さんを頼む」と言った。

 私の妻には、とぎれとぎれだが、比較的明瞭な声で、「ありがとう。これからも家族で一緒に」と語りかけた。結婚してまだ日の浅い妻への気遣いだった。

 最後に私が、枕元で父の手をとった。すると、これが死に際した人の力かという強さで私の手を握りかえし、一度息を整えるようにしてから、声を落として言った。

 「お前にはまだ負けない」

 私は棒で打たれたような気がした。快復に向けた頑なまでの父の態度の理由が、その言葉で一気に腑に落ちた。まったく父らしいやり方の種明かし。

 私があの時、とっさについた嘘など、父は先刻お見通しだったのだ。嘘を百も承知で、治ることを信じている自分を淡々と演じていた。演じ続けてくれていた。

 仮に最初は私の嘘を信じたとしても、次第に頬がこけ、眼窩の落ちくぼんでいく自分の相貌を鏡で直視して、いつまでも死期を悟らなかったはずはない。

 父の渾身の演技に、私たち家族は、そうでなければつらく、沈鬱だったであろう看病から解放された。

 それにしても、末期癌の痛みに耐えながら、それをおくびにも出さず、一時にせよ快復の可能性すら家族に期待させた父の意志の力。

 父から私は、覚悟のありかたを教わった気がする。時間と命をかけた遺言として。 


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