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一般の部
<アフラック賞>
「本当の強い人」
山下 寿美江(埼玉県新座市・43歳・主婦)


 今でも時々I先生のことを思い出す。自分がくじけそうになった時、余裕がなくなって周りが見えなくなった時。ふっと手を止め、ひとりつぶやく。あぁ、私はまだまだですね……と。

 娘の病気が分かったのは、幼稚園に入園したての三歳の時。見た目には全く病気を感じさせない元気な娘が、なぜか検査の結果はいつだって良くない。進行性の腎炎だった。初めはゆっくり進行し、数年後、透析、移植へと進んでしまう、少々厄介な病気らしい。小学六年生になったころ、病状は急激に悪化した。目に見えて衰弱していく娘を見ながら、この病気の恐ろしさを思い知らされた。ぶくぶくにむくんでしまう顔。学校までたどり着けない体力。腹水で膨らんでしまった妊婦さんみたいな大きなおなか。私は悲しいのか悔しいのか、つらいのか、涙を流す余裕もなかった。ただ少しでも気を抜いてしまったら、娘が消えてしまいそうで怖かった。そして秋、心の整理もできないまま透析の生活が始まった。十二歳になった娘は心の底から信じていた。大丈夫。主治医のI先生が必ず病気を治してくれる。そう信じる娘の顔は何の戸惑いも疑いも、不安さえも抱いていないかのようだった。娘にとってI先生は、ずっと特別な人だった。

 しばらくは穏やかに時間が流れ、移植に向けての準備も進んでいった。I先生との打ち合わせの日、話の最後に夫が言った。

 「I先生、私たちは娘が三歳の時からずっと、先生を信じて着いて来ることができました。最後までI先生に診ていただきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします」

 「……」

 なぜだろう。I先生は言葉に詰まり、身動き一つせず、ただ胸がズッキーンと痛くなるような、とっても悲しそうな顔をした。そして小さな声で「分かりました……」と一言だけ告げ、席を立ちながらもっと小さな声で「でも、皆で診ていますから大丈夫ですよ」とつぶやくように付け足した。きっとI先生だったら、一緒に頑張りましょうと励ましてくれる。そう期待していたからだったのだろうか。なぜか感じるとてつもない寂しさに、私は少し戸惑った。

 その日からちょうど三か月後、I先生は他界された。末期のがんだったそうだ。一年前に病気が分かった時には既に手の施しようもなかったと後で聞いた。あの時I先生が初めて見せた悲しい顔は、手術の日に自分はいないかもしれないと思われたのだろうか。余命を知っていた先生は、果たせないかもしれない約束に一瞬ためらわれたのだろうか。その時の苦しいお気持ちを思うと、胸が張り裂けそうで、今でも涙がこぼれてしまう。

 I先生という大きな支えを失った私たちがボロボロに崩れてしまったのは言うまでもなかった。自分の病気を治してくれる先生、そう言い続けて大きくなった娘が、果してこの現実を受け入れられるのか。この先病気と闘っていけるのか。不安で押しつぶされそうだった。真っ暗な世界にポツンと取り残されてしまったようで、右にも左にも、前にも後ろにも、ただ怖くて一歩も動くことができずにいた。数日後、自分なりに答えを出して娘が言った。「大丈夫。I先生は今までいっぱい勇気をくれたから。だから絶対、病気に勝つから」

 いつの日を思い出しても、優しく声を掛けてくれたI先生の姿ばかりが目に浮かぶ。夜中に急変して入院した時には、白衣を片手に駆け付けてくれた。娘が小学校最後の吹奏楽の大会に、どうしても出たいと懇願した時、ゆっくりうなずいて先生はこう言った。

 「もしも未来に希望がなかったら、治る病気も治らない。どんなに難しい病気でも、その先に夢や希望があったなら、人って時として医学では証明できないぐらいの物すごい力を発揮するものなんです。特に子供はね。その無限の力を一緒に応援していきましょう」

 どんな時でも患者の心を大切にしてくれた先生に、私たちの心は何度救われたことか。でもその優しい笑顔の裏で、本当は物すごく苦しい日々を送っていたことを私たちは全く気付かなかった。

 半年後、移植手術は無事終わり、私の左の腎臓が娘の体の中で動き始めた。心配していた再発も今はなく、娘は随分丈夫になった。

 I先生が亡くなられてから二人でこんなことを話した。本当に強い人間というのは力が強い人じゃない。もちろん、権力のある人でもない。自分がどんなにつらい時でも人に優しくしてあげられる人こそ、本当の、真の強い人なんだよね……と。そして先生に恥じないような心の強い人でありたいね……と。

 I先生、ありがとう。先生と出会えて本当に良かった。


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