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一般の部
<入選>
「こっち側においでよ」
中原 麻衣(37歳・埼玉県川越市・アルバイト)


 突然の出来事だった。夫が四十四歳の若さで亡くなるなんて。七歳の長男、四歳の双子の娘を残して、こんなにあっけなく一つの命が消えるということが、あっていいのだろうか。

 先天的な心臓病、不整脈の一種を抱えていることは承知していた。しかしこの病気で命をとられることはない、と聞いて信じ込んでいた。いや、ごくまれに――タイプによっては突然死を招くことがある、とも聞いてはいたのだ。だから毎年、健康診断は欠かさず受け、一度は大学病院で精密検査を受けたのだ。しかし三時間の待ち時間の揚げ句、これは治療のしようがない、発作が出たら救急車を呼んで、と言われたのだそうだ。夫は憤慨したように「まあ持病だな」と言い、それ以来、健診結果の「要精検」はそのままにしてきた。

 夫が高一の春、彼の父は五十一歳で突然死している。病名ははっきりしない。夫と父親が二代にわたり突然死したことは、私の内側を黒い風が吹きぬけていくような気分にさせた。私たちにも子供がいるのである!「先天性の心臓の病気」が遺伝するものであったなら――。私は、子供たちがこの憎むべき病気のために命を持っていかれるようなことがあっては、断じてならないと思いつめた。

 「検査しましょう。それが一番です」

 夫の死の翌月、かかりつけの小児科医は、私の不安を聞くとすぐにそう答え、紹介状を書いてくれた。

 がん、脳卒中、心臓病。日本人の三大死因である病気の治療に特化したその病院ができたのは、八か月前のことであった。子供たちの紹介状は、この病院の「小児心臓科」にあてて書かれた。一通りの検査を終えた私と子供たちが招かれた診察室で、担当となったM医師は穏やかにこういった。

 「ご主人のこと、大変でしたね」

 机上にはパソコンが二台あり、M医師は画面に表示された心電図の波形に目を凝らした。すると丸椅子に腰かけた長男も、これでもかというほどに同じ画面を見つめている。

 「そんなに興味があるの? じゃあ、今に、こっち側においでよ。待ってるからさ」

 それははっとするほど、唐突な誘いだった。次の瞬間、夫をこの病院に連れて来られなかった後悔と、成長した長男がM医師とともに心臓病の治療をしている姿とが、いっぺんに私の中に湧き上がってきたのだ。夫の命を救えなかった後悔を、長男がやがて同じ病気の誰かを救うことで薄めることができたら、どんなに素晴らしいことだろうと思った。覗き込む長男を邪魔にすることもせず、そんなふうに声をかけてもらえるなどとは、全く予想していなかった。嬉しかった。

 「お嬢ちゃん二人は、まず何もありません。念のため、年一回検査を受けましょうか」

 「お兄ちゃんですが――、まずは大丈夫です。それが前提です。でも、気になるところがないとは言い切れません。もう少し、詳しい検査をさせてくださ。」

 はっきりシロではなかったことに落胆したのが本音だ。でもM医師が診てくれるのなら、グレーでも怖くない、大丈夫とも思った。

 「ご主人の状況についても伺います」

 返答はパソコンに入力されていく。しかしその手は度々止まった。私が夫の持病、過労を放置した後悔や、子供の病気の可能性、生活や教育の不安を口にしたタイミングで。

 「ご自分を責める必要は全くありません。もし何かが違っていても、救えなかった命なのだと思います」

 「心臓病は怖い病気、ではなく難しいことのある病気、と考えましょう。だから軽く見てはいけない、ということで十分だと思います」

 白を基調とする決して広くはない診察室は、夕刻前の日ざしに薄くオレンジ色づいている。それはM医師の限りなく優しいやりとりに、とても似合う色だと思った。

 医療が与えてくれる光は、向かい合わせのままの心には届かない。隣にそっと立ち、患者と同じ方向から、同じ景色をともに眺め、感じ、その思いを聞き、語る時間が、どうしても必要なのではないだろうか。

 「こっち側においでよ」

 子供にそう語りかけてくれたとき、M医師は「向かい側の人」ではなくなっていた。

 「心臓病は怖い病気ではありません」

 専門医からの言葉は、私たちを勇気づけた。でもこれはM医師が、小さな患者たちとともに病と闘う決意の表明だったのかもしれない。

 「ご自分を責める必要はありません」

 私の立場を慮(おもんばか)り、遺族としての心の傷にまで何とか寄り添おうとしてくれた。頑なな自責の念を溶かそうとする、私のための時間がそこに存在していたのだ。

 童話『北風と太陽』では、旅人の分厚い外套(がいとう)を脱がせるのは太陽である。太陽の日ざしに似た、温かく穏やかな出会いがあったことに感謝したい。


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