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小学生の部
<優秀賞>
「介護ができるすばらしさ」
沢 瑠花(東京都小金井市・12歳・小学6年)


 誰もが病気やけがをすれば誰かの手をかり、看護を受けると思います。わたしの祖母は八十一歳になります。人の手がなければ食べることも横になることもできません。介護を受ければ快適に過ごせるのではなく、祖母は生死にかかわるのです。あれほど元気だった祖母が、いつからだろう母の手を必要とするようになったのは。

 一年生の時、伊豆へ旅行し、その時祖母は一人で歩き、わたしをおんぶして遊んでもくれました。一人でどこへでも出かけ、わたしたち孫の服、お菓子、喜びそうなものをたくさん買って来てくれたりして、どこまでも歩いて出かけていましたが、ひざの痛みを言うようになり、タクシーに乗ることが多くなり、少し遠い所へ行く時は、父や母が付きそうようになりました。見守りの始まりです。それから脳梗塞(こうそく)や体調を崩すことが増え、一人で歩くことができなくなってしまいました。体の自由はきかなくなってしまったけど、祖母は以前と変わることなく、わたしたち孫と遊んでくれました。

 パーキンソン病になり、お箸(はし)が持てなくなり、母がスプーンで食べられる食事を支度するようになりました。そしてトイレに一人で行けなくなったころ、祖母の希望で老人ホームに入居しました。自宅からすぐ近くのところで夜だけお世話になることにしました。その時の祖母、父、母の気持ちが今になって少しわかるような気がします。祖母は絶対、わたしたちとこの家にいたいはずなのに、皆に苦労をかけるからと思い、自分の気持ちをおさえて決めたのだと思います。父も母もわたしたちに、祖母の病気が進行せず、いつでも皆が笑顔でいられるには、他の人の助けが必要なんだと言っていました。

 家族での介護、ヘルパーさんの介護の始まりです。わたしは学校の休みの時ぐらいしかお手伝いができませんが、母は祖母のそばにいるだけでいいと言っていました。わたしたち孫がいるだけで、見ているだけで、心がなごむのだと言われ、祖母のわたしたちへの想いが伝わってきました。

 祖母のおもらし。皆のいる中でおもらしをしてしまいました。わたしはその時「はっ」と思ったことを覚えています。何が起きたのか、わたしはどうしていいのか、わからず、その場にいました。姉妹たちもその場で固まっていましたが、すぐ何もなかったようにしました。母は手なれたように祖母のお世話をしていました。その日わたしは初めて祖母の状況を知りました。それからは、母の介護の仕方を見るようにしました。ある日の会話です。

 「おトイレ行かせてね」と、母が祖母をトイレにさそい

 「お世話させてくれてありがとね」と、手をふいていました。何か不思議な気がして母に聞いてみました。母は、おトイレのお世話をするよりも、される祖母の気持ちを気づかっていたようです。介護をするのもされるのも、お互いを思えば思うほど大変なものだと思いました。

 そして今、この間までは父が祖母を抱っこして移動していたのに、今では母が抱っこできるほどやせてしまい、水分を取るにもとろみをつけ、固形物も食べられなくなりました。皆の名前も口にはしなくなり、でも忘れてはいないのです。何も言わないだけで、何でもわかっていると思います。それは、祖母の手がいつも温かく、強くにぎってくるからです。もっと祖母にしてあげたい、母の用事を減らしてあげたい。でもそれには多くのお金が必要なことを知りました。

 母は祖母は幸せだと言います。多くの人の手をかり、その手がとても温かく、祖母のまわりにはいつも笑顔があるからだと。

 介護とは、する方される方のお互いの思いやり、できることにも限度があるということ、家族だけでは、乗りきれないこともあること、不公平なことがあること、お金がかかりすぎること、そして、今、六年のわたしにもできることがたくさんあることをわたしの家族を通して皆に知ってもらいたいです。

 まだまだわたしたち家族の介護は続きます。もっと大変になるかも知れませんが、その方がいいです。それは祖母がいつまでもわたしたちのそばにいてくれるということだからです。大好きなババ。わたしにもお世話させてください。母のようにできるまで元気でいて、色々と教えてください。


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