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一般の部
<入選>
「二つの笑顔」
尾引 光子(53歳)千葉県柏市・ホームヘルパー


「やっぱり、ダメだ。自信がない」
介護用ベッドに腰かけた夫が、涙を浮かべながら、言いました。
「ごめん。みんな、楽しみにしてたのにな」

 2003年に大腸癌の手術をして以来、夫は癌と闘ってきました。腸閉塞に悩まされつつ、職場復帰しましたが、2007年10月、肝臓とリンパに転移。2008年夏、背骨に転移して、自宅での緩和ケアを始めたのです。最後に残された夢は、一家揃っての旅でした。

 幸い、電器店でパートをしていた長男の休みが3日間とれ、夫の郷里である福島県への旅行を計画したのです。移動手段は、自家用車で、4時間ほどの道のりを息子が運転。猪苗代湖近くの、敷地の中にクリニックを備えているホテルに宿泊することにしました。
「今が、一番いい時期かもしれませんね」
と先生や看護師さんも賛成してくれました。夫も、とても楽しみにしていたのですが……。放射線治療を終えて、自宅に戻ってから、急な発熱や、痛み止めによる幻覚など、さまざまな症状が、夫を苦しめていました。

 慣れない息子の運転。助手席を後ろに倒した状態での移動。痛み止めが足りなくなるのではという心配。考えているうち、不安の方が旅への期待を上回ってしまったのでしょう。正直、わたしも不安でした。でも今回を逃したら、もう二度と家族旅行のチャンスはないかもしれません。そんなわたしたちを、勇気づけてくれたのが、二人の女性の笑顔でした。

 まず、訪問看護師のMさん。Mさんは大柄な女性です。ベテランの看護師さんで、いつもタオルで汗を拭き拭きやってきます。
「暑い中、大変ですねぇ」
とわたしが言うと、
「やせるはずなんですけどねぇ」
と、Mさんが笑うのでした。Mさんは、気難しい夫の言うことを、否定せず、おおらかに聞いてくれて、ひとつひとつ解決策を考えてくれました。今回の旅行の件も、相談にのってくれ、パンフレットを見ながら、
「いい所ですねぇ! 休みなら、わたしも一緒に行っちゃうのになぁ。よかったですねぇ」
と、喜んでくれていたのでした。

 夫が、直前になって行けないと言い出したとき、ちょうどMさんが電話をかけてきてくれました。事情を話すと、すぐにやってきてくれ、夫の話を聞いてから、
「大丈夫です。わたしが太鼓判を押します。ぜひ、行ってきてください」
と、夫の背中を押してくれたのです。そして、まだ不安があれば、担当のH先生に相談してみれば、とアドバイスをしてくれました。

 わたしたちは、Mさんの言葉に力を得て、緩和ケア外来のH先生にお電話してみました。

 H先生に、初めてお会いした日のことを、よく覚えています。小柄で、笑顔が可愛らしくて、関西弁のおしゃべりが楽しい女性でした。長い闘病生活の最後に、H先生のような方に会えたことを、わたしたちは本当に喜んでいました。H先生は、夫だけでなく、妻のわたしの顔もきちんと見て、お話ししてくれます。わたしが、日々書き留めている介護日誌にも、ちゃんと目を通してくれました。夫のプライドを傷つけず、夫の仕事への思いなども、辛抱強く聞いてくださいました。

 旅行の不安をH先生に電話で相談すると、
「午後、いらしてみてください」
と、すぐに時間をとってくれました。そして、夫の細かい症状や不安をじっくり聞いてから、
「薬の飲み方を変えてみましょう」
と、1日の痛み止めの時刻と量を、一覧表にして書いてくれました。また、旅先のクリニック宛てに、手紙を書いてくださいました。

 わたしたちは翌朝、無事に旅行に出かけることができました。助手席の夫は痛みもなく、思っていたよりずっと元気で、運転席の息子に、頼もしく指示を出していました。

 ホテルでは、窓辺に陣取って、猪苗代湖や磐越西線の風景を見つめながら、
「懐かしいなぁ。懐かしいなぁ」
と何度も喜びの声をあげていました。移動は車椅子で、ホテルの食事はほとんど食べられず、部屋で休んでいることも多かったのですが、1泊目の夜に息子と露天風呂に入り、フルーツ牛乳をおいしそうに飲んでいた浴衣姿の夫を、わたしは忘れることができません。

 それから約1か月後、夫は思いがけなく早く、天国へと召されてしまいました。今思い出しても、あのとき思いきって家族旅行に出て、本当によかったと思うのです。

 わたしたち夫婦にとって、夫の5年間の闘病生活は、苦しくもあり、充実した時間でもありました。その思い出の中で、今も二つの星のように輝いているのは、MさんとH先生、お二人の女性の笑顔です。患者や家族にとって、先生や看護師さんの笑顔は、何よりの薬です。わたしたちを支えてくれた二つの素敵な笑顔に、今も心から感謝しています。


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