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小学生の部
<優秀賞>
「忘れないよ、財前さん」
長岡 和泉(12歳)宮崎県宮崎市・小学6年


 「プルルルル」

 私は、いやな予感がした。電話で話している母の声がふるえていた。それは、財前さんが亡くなったという知らせだった。財前さんとは、私のばあちゃんがお世話になっている、グループホーム「かあさんの家」で暮らしていた、末期がんのおじいちゃんだ。

 私たち家族は、知らせを受けた後、財前さんのもとにかけつけた。財前さんは、おにあいのおしゃれな黒いぼうしを胸に乗せ、気持ちよさそうにねているようだった。私たちは、お線香をあげ、手を合わせて拝んだ。
「財前さんが死んでしまって、とても悲しいです。でも、楽しい思い出を、たくさんありがとうございました。財前さんのことは、ずっと忘れません」
そう、心の中でつぶやいた。苦しそうじゃなく、おだやかにねむっているような顔を見て、なんだかほっとした。

 横浜のマンションで、一人暮らしだった財前さん。この遠い宮崎にやってきた時、すでに、あと数か月の命と言われていたそうだ。

 初めて財前さんに会ったとき、
「だれ? このおじさん。何しにきたにかな」
とふしぎに思った。なぜなら、すごく元気そうでしっかりしていたからだ。

 財前さんは、優しかった。私の本当のおじいちゃんみたいだった。お弁当を持って、いっしょに花見に行ったり、ごはんを食べに行ったり、散歩したりした。財前さんの部屋にもよく遊びに行って、私の話を聞いてもらった。

 ところが、宮崎に来て、1年過ぎたころ。少しずつ財前さんの容体が悪くなってきた。部屋できつそいにして横になる時間が多くなってきたのだ。私は、それを見ると、いつものように部屋に入ることが、できなかった。

 がんで、おなかの胃をほとんどとってしまっている財前さん。しだいに、ごはんを食べることも、つらそうになっていった。いたそうなおなかをさすりながら、無理してごはんを食べていた。歩くときも、いたみをこらえながら、かべをささえにして、ゆっくりと一歩ずつ足を動かしていた。そのとき、私は、なにか声をかけてあげたかった。でも、できなかった。あまりにもつらそうで、なんと言っていいのか、わからなかったからだ。ただ、じっと見つめていることしかできなかった。

 7月。財前さんが宮崎に来て、1年半が過ぎていた。とうとう財前さんは、ベッドから起きあがることができなくなった。
「財前さん、こんにちは」
「……こんにちは、和泉ちゃん」
ねむっていた目をあけて、にこっと、あいさつを返してくれた。数日後、私があいさつをすると、目をあけて深くうなずいてくれた。さらに数日後、目はとじたまま、うなずくだけになった。最後の数日間は、私が声をかけても、うなずくこともできなかった。

 あんなに元気だったのに、食べることも、トイレも、話すことも、なにもかもできなくなってしまった。手や足も、私よりずっと細くなった。財前さんは、いったいどんな気持ちだっただろう。全身が、いたくてたまらなかったにちがいない。このままどうなっていくのかを考えると、不安でおしつぶされそうになっただろう。きっと、いろんな気持ちがあったと思う。

 でも財前さんはきっと、こう感じてくれていたと思う。独りぼっちじゃなく、ここでみんなといっしょに、最後まで過ごせて良かったなあと。

 私のチカばあちゃんとも、「かあさんの家」にいるおじいちゃん、おばあちゃんたちとも、いつか必ずお別れのときがくる。だから、おばあちゃんたちと過ごす時間を、大切にしたい。私にできることは、ほんの小さなことだ。それは、いっしょにおしゃべりしたり、いっしょに遊んだりすること。こんなことしかできないけど、なにか少しでも役に立ちたい。そして、みんなには、生きている時間を最後まで、楽しく過ごしてもらえるといいなあと思う。

 チカばあちゃんは、今日も元気にしているかなあ。トメ子ばあちゃんは、歩く練習をがんばっているかなあ。ウメノばあちゃんは、私の名前を思いだしてくれるかなあ。ひろあきじいちゃんは、今日もじょうだんを言っているのかなあ。みんなとどんなおしゃべりしようかなあ。

 おじいちゃん、おばあちゃんたちの顔を思いうかべながら、今日も私は、自転車のペダルをこいで「かあさんの家」に行く。


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