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平成27年(2015年)12月5日(土) / 南から北から / 日医ニュース

「ホントは教えたくない温泉の話」コーナーより

 20年位前から温泉ブームは続いているような気がする。テレビではいつも温泉地の紹介があって、湯布院や黒川温泉など、実際には行っていなくても随分詳しくなったものだ。憧憬の温泉地と言ったところである。
 父親が亡くなって7年が経つが、80歳を過ぎた思い出に父母を湯布院亀の井別荘に連れて行ったことがある。温泉・食事・サービスともに大満足の3日間であった。しかし家に帰って、風呂に入った父は開口一番「やっぱ家が一番じゃのう」と言った。
 思えば父は私の幼少の時分から、家族旅行、外食から家に帰った時の口癖は「やっぱ、家が一番じゃのう」であった。
 そこで私は一計を案じて、「明礬(みょうばん)の花」という温泉入浴剤を取り寄せ、自宅の風呂を温泉の湯にすることにした。余命わずかな父親への最後のささやかな親孝行として。
 父は山口県山陰の小さな漁師町で育ったのだが、 終戦後は海軍軍人の生き残りとして、 大洋漁業に入社した。町には職を持たない若い復員兵があふれて、荒れていたという。そんな若者達を引き連れて、毎年半年間は南氷洋(南極の近く)、残りの半年間は北洋(北極の近く)で大型の捕鯨船に乗って、鯨や鮭などを捕っていたのである。毎年2回ほどわが家はそんな若き船員達の会合場所になっていた。
 私の幼少期の昭和30年代では、若き船員達はイナセに決めていて、集会の前は結構物騒な雰囲気だったのを覚えている。昭和50年代になって、矢沢永吉のコスチュームや映画『仁義なき戦い』の中の川谷拓三や室田日出夫に既視感に近い親近感を覚えたのは、幼少期に見た若い船員達そのものだったからだ。
 そんな若者たち数十人を束ねて、海洋生活を送って30年間。その時間の重さ、偉大さに気付いたのは、既に父が亡くなってからであった。船という密室の中で恐らく、激しい喧嘩やすさまじい権力闘争が繰り広げられたはずである。毎日が事件の連続であったに違いない洋上での生活を30年もの長きにわたって、父は事業委員長として職場を仕切ってきたのである。家では仕事の愚痴を言ってきたことが一切なかった。
 父が大洋漁船にいた時は1年に2度、約1カ月家に居た。「やっぱ家が一番」という父の言葉の重みを毎日「温泉入浴剤」に浸りながら、しみじみと感じている。

(一部省略)

広島県 広島市医師会だより No.586号より

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