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平成28年(2016年)4月5日(火) / 南から北から / 日医ニュース

キマロキの頃

 宗谷(そうや)本線の名寄(なよろ)駅は、旭川の北、稚内の南にある。当時、そこは蒸気機関車(SL)の撮影名所である深名(しんめい)線や名寄本線への中継地であり、規模の大きな機関区を備えているため、SLファン(現在の撮り鉄の走り)のメッカの一つだった。冬季の積雪は道内でも群を抜いており、豪雪時には特別の除雪用列車キマロキ編成(機関車・マックレー車・ロータリー車・機関車)が運行された。
 雪の残る宗谷本線塩狩峠での撮影を終え、SL牽引の下り鈍行列車で名寄駅へ向かっていた。乗り過ごさないよう気を付けてはいたが、客車の座席で横になっているうちに、寝入ってしまった。
 不意に、停車した駅のアナウンスが、「なあよろ~なあよろ~」と駅名を告げているのに気付いた。半覚醒状態のまま、慌ててキスリングザックを背負い、デッキからその駅に飛び降りた。
 名寄駅は相当大きな駅で、隣接する名寄機関区には9600型、C57型、D51型などたくさんのSLが、煙を上げているはずだった。しかし、降り立ったのは、見渡す限りの原野にポツンと孤立した、小さな駅だった。ここではないはず、と駅名の看板に目を向けたが、"名寄"と読めた。混乱している間に鈍行列車は去って行った。ホームに降りたのは、自分ひとりだけで、そこは駅舎以外に何もなく、腰の高さ程の残雪に取り囲まれていた。
 駅名をもう一度、看板に近寄って確かめた。「名寄」(なよろ)ではなく「多寄」(たよろ)だった。先ほどの駅のアナウンスは、「たあよろ~たあよろ~」だったのかと気付いた。「名寄」の数駅手前に「多寄」という紛らわしい駅が存在したのだった。
 多寄駅には若い駅員さんと中年の駅員さんがおられた。自分が中学1年生で、春休みに北海道周遊券(鈍行と急行の2等自由席及び青函連絡船を14日間利用可)を活用して、大阪からひとり旅をしていること、鉄道好きのSLファンであることを知り、駅員さんたちは、興味深そうに、話し相手になってくださった。しばらくして「実は、名寄駅と多寄駅を、うたた寝が原因で間違えて、ここで下車してしまった」と打ち明けると、駅員さんたちは同情し、ますます親切に気遣いをしてくださった。次の下り旅客列車が来るのは3時間後だった。数本のSL牽引貨物列車が、駅を通過するところを撮影できた。
 急勾配区間でのSL撮影は迫力満点で心躍るものだが、駅通過時もタブレット交換や駅員さんとのやりとりに趣があり、興味をそそるものだった。
 空いている時間も、駅員さんたちが大いに楽しませてくださった。ホームの傍らの雪をスコップで掘り進めると、簡単にワサビが顔を出した。駅舎に持ち帰り、おろして、醤油をつけて食べさせてくださった。一緒に記念写真を撮ったり、住所を交換したり、3時間はすぐに経過した。
 そろそろ多寄駅を離れる頃に、線路の切れ端・国鉄駅員の制帽・タブレットを机の上に並べて見せてくださった。線路の切れ端は10センチ程でも重く、切断面がバーナーで処理され、ギザギザしていたのが印象的だった。駅員の制帽は黒色のフェルト製で、国鉄が制帽を布製にモデルチェンジしたために不要になった、とのことだった。タブレットは、単線区間の列車運行制御には不可欠な革製の輪状構造物で、宗谷本線の信号機導入により不要になった、とのことだった。「旅行中で、荷物になるけれど持って行きますか?」と聞かれ、もちろん喜んで頂いた。鉄道大好き少年にとって、お宝中のお宝だった。かなり重くなったキスリングザックを、うきうきしながら背負って、もうしばらく旅を続けた。
 「急行きたぐに」「青函連絡船」「急行すずらん」を乗り継いで、2日間かけ、大阪と北海道を行き来していた、40数年前のことだ。大阪に持って帰った鉄道関連グッズの所在は、今はもうはっきりしない。しかし、あの時のほんの数時間のできごとは、深い懐かしさとともに今でも覚えている。50代半ばの自分の情緒と個性に少なからず影響しているような気がする。

(一部省略)

長野県 上田市医師会報 527号より

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