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平成28年(2016年)5月5日(木) / 南から北から / 日医ニュース

二人のファーザー

 高校の頃、大好きだった「甲斐バンド」のLPレコードのインナースリーヴに"この世はつらいことが多すぎるから、2人の父親に面倒をみてもらわなければ生きていけない(Godfatherイタリア古諺(こげん))"と書かれたものを目にした。当時の私には理解不能だったが、ずっと心に留まっていた言葉だった。
 高校卒業までに無理をし過ぎ(?)、80年代中盤、バネの延び切った状態で県外の大学生活やバブル時代へ突入した私は、日々を趣味に明け暮れた落ちこぼれの医学生だった。
 私の父親は最近では認知機能も低下し穏やかな受動的状態にあるが、昔はとても厳しく怖い存在だった。怠学のため3回生への進級ができず、親には言えず「生活費を100万円貯めてから告白しよう」と決心してウエイターのバイトを始めた。しかし世間の風は厳しく1カ月後、結局はアパートへ引きこもる生活になってしまった。
 その後何とか大学へ戻ったが、次は5回生への進級も危ぶまれる状況となった試験の前夜、私は夜空を仰ぎ「明日のテストで落ちたら、親に内緒で2年もダブってしまう」と初めて"自殺?"の3文字が脳裏をよぎった。
 結局何とかパスしたものの、前述の留年を3年間内緒にしていたため、その年の春休み、父親が夜のジョギングへ出掛けようとする玄関先で事実を伝えた。父は靴を履くと振り向きもせず静かに「そうか」と言い出て行ったまま、以後その件に触れることはなかった。
 何とか医師になり、大学研修後の8年間を今治市内の精神科で勤務した。最初の病院で出会った老医師(名誉院長)は、澤木興道を座右の書とした座禅の人だった。先生は実子よりも若い私を可愛がって下さり、こと有るごとにご自身の山庵での休日の宴を共にした。"倒木:倒れたところが到達点"とよく仰られていたが、それが真理か否か、は謎だった。
 転勤後も私は同市内で勤務していたため「今夜、一杯どうかな?」と断り無用の電話勧誘を何度も頂き、私達は歳の離れた飲み友達というお付き合いをさせて頂いた。先生とは私が当地へ戻る春、同庵での花見会が最後となり、その年(平成12年)の秋、先生は亡くなられた。「この師に対して恥ずかしいような仕事の道は歩むまい」と教えて頂いた。
 時は流れ、医師人生も中盤を過ぎた今、既に私自身が当時の彼らの年齢寄りになってきた。毎年春になると冒頭の言葉とともに思い出すエピソードである。

大分県 大分県医師会会報 第728号より

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