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平成28年(2016年)8月5日(金) / 南から北から / 日医ニュース

「刺身醤油」ありますか?

 私は、美味しい日本酒を味わいながら、ひと皿の新鮮な鯛の刺身を食すことをこよなく愛している。だから、私にとって日本酒はもちろんのこと、刺身につける醤油の味も重要である。
 5年前、私は大分県から道東の美幌町へ転勤した。この好機を利用して、これまで訪れたことのない日本海側を、妻と2人、車で北上し北海道に向かうことにした。
 九州から山陰に入り、数日かけて鳥取砂丘や城崎温泉、天橋立、兼六園などを訪れる。そして富山市にたどり着いた日のことである。宿でチェックインを済ませた私達は、早速、近くの居酒屋ののれんをくぐり刺身を注文した。ふとテーブルに刺身用の醤油がないことに気づき、店員に「刺身醤油はないですか」と聞くと、店員は首をかしげテーブルに置いてある普通の醤油瓶を指さす。この時、初めて「刺身醤油」が全国共通語ではないことに気づいたのである。しかたなく刺身に普通の醤油を付けて食べるが、どうしても口の中に生臭さが残る。その後、北海道に入ったが、この5年間「刺身醤油」とは縁のない生活が続いている。
 しかし、思い返してみると、あのとろりとした濃い色の刺身醤油は、普通の醤油とどう違うのだろう?
 醤油の歴史書をひも解くと、驚いたことにその歴史は紀元前にさかのぼり、中国の「醤(ジャン)」がその始まりのようである。「醤」とは塩漬けを意味し、当初は魚や肉の塩漬けそのものを指した。日本でも弥生時代から同様のものはあったようだが、いわゆる「醤油」の発祥は1600年頃で、当時は、醤油といえば大豆のみそを絞って造る「たまり醤油」を意味し、主に上方で製造されていた。現在、主に東海地方で作られ、刺身醤油としても用いられる。江戸時代に入り、小麦を多量に追加して、現在一般的に使用されている「濃口醤油」が作られた。今日では、この濃口醤油が市場の8割を独占し、北海道では9割以上である。
 一方、関西では当時、大豆に小麦ではなく米を糖化させたものを混ぜて、色の薄い「淡口醤油」を作った。北陸地方では上方からのこの淡口醤油の影響が強いようだ。九州は、長崎を通じて海外から、あるいは琉球から砂糖を手に入れやすかったことで、甘みの強い濃口醤油が好まれている。特に、甘みやうまみなどを多く加えてとろりとさせたものが、あの「刺身醤油」で、九州では刺身には欠かせないものとして広く普及している。
 また、私の妻の故郷である山口県柳井市には「甘露醤油」という刺身醤油が江戸時代からあった。柳井市で育った妻を持ち、九州に住んでいた私は、これらの「刺身醤油」が全国共通でないばかりか、極めてローカルなものであったことに初めて気づいたのである。
 ところで、この刺身醤油の素晴らしいところはその味の良さだけでなく、刺身の持つ生臭さを完璧に包み込んで消し去ってくれるところにある。
 ご存知かと思うが、日本料理の刺身とワインはひどく相性が悪く、口の中で魚の生臭さが何倍にも膨れ上がる。これはワインの中の鉄分と関連があり、魚の油分と鉄分が反応して、生臭い成分が瞬時に増えるためである。生魚をワインと一緒に食す時は、魚をオリーブオイルで処理しておくと大丈夫だそうである。しかし、刺身をオリーブオイルで処理してしまっては、もはや刺身とは言えない。刺身醤油をつけ、日本酒とともに食することで、魚の臭いは全く気にならなくなるのである。これまで何も考えず、当たり前のように「日本酒、それに刺身と醤油」を味わっていたが、実は長い日本の歴史の中で、先人たちの深い知恵から生まれた最高の食べ方だったのである。

(一部省略)

北海道 北海道医報 第1163号より

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