閉じる

平成28年(2016年)8月20日(土) / 南から北から / 日医ニュース

脳外科から農芸家へ

 団塊の世代の最後に当たる私にとって、小学校の頃から農業は生活の一部であった。春・秋には農繁休業という1週間ほどの農作業のお手伝い休みがあり、このせいか夏休みは短く、盆が終わるとすぐ2学期が始まった。
 特に春はたまねぎの収穫、秋は稲の刈り取り・はぜ掛けで暗くなるまで仕事の手伝いをさせられた。好きでやっていたわけではないので、収穫後の田んぼで友達と野球をし、自家製の竹の釣竿で釣りをするのが楽しみであった。春は桑の実を、秋は柿をおやつに遊んだ記憶が懐かしい。
 このような農作業は中学まで続き、その後新潟大学を卒業し脳研究所脳神経外科に入局した。1年目の冬に医局のスキー旅行でニセコに行った際に、見知らぬ方にゲレンデで写真を撮っていただいたが、送られてきた写真が入った封筒には新潟大学脳研究所農芸科と宛名が書かれてあり、脳外科の認知度の低さと郵便局の機転のすばらしさに驚いたのを覚えている。
 そして昭和62年に長野赤十字病院に出張となったが、借りた一軒家の大家さんが農業大学の講師をやっていたことから、授業で余った苗をよく持って来てくださり、指導も受けることになった。
 以上が本格的に農作業をやる以前の経過である。平成7年春には母一人で暮らしている現千曲市に戻ってきたが、それからが大変であった。千坪もある土地に傷んだ家が8軒あり、屋敷畑はジャングル状態であったからだ。初めの2、3年間はのこぎりとチェーンソーが必要で、林業をやっているようであった。
 ようやく農業と思われる副業をやれるようになったのはここ10年余りであるが、今でも冬は柿・梅・松・銀杏・竹などを相手に剪定(せんてい)・伐採をやっている。
 さて農の楽しみは、"旬"の新鮮なものを口にできることだろう。そのための努力研究は相当必要であり、さまざまな知識・経験が物を言う。種から植物を育てる新鮮さ・驚きもまた別格のものである。米作までやると大変な労力を要し、本職を辞めなければならないため、果樹・野菜に限定している。
 耕作面積があまりに広いため、3人の弟子にそれぞれ耕作地を分け、1台のマメトラを使って土日・休日に和気あいあいと汗を流している。一番弟子とは互いの知識を共有し、年々新しいエビデンスが加わるのを楽しんでいるが、モットーは農薬をほとんど使わないこと、作物から種を採り可能な限り苗から育てることとしている。2、3番弟子は仕事上週1回くらいの作業で、進歩が見られないのが残念であるが、彼らの失敗は私の教訓ともなっている。
 作業ばかりでなく、春のウド、タラノメを味わう会、夏野菜を楽しむ会、秋の収穫祭などを開き、旬を堪能している。
 ダッチオーブン・煙製器なども食材をより美味(おい)しくするアイテムである。余った野菜・果実はジュース・ジャム・ビン詰めに加工し、折々に楽しんでいる。11月には干し柿用の柿をむき、12月にはもちつき大会で1年の農作業を締めくくっている。
 さて、本職の脳外科は局所麻酔の手術から、自分で全身麻酔をかけて行う手術までやっているが、いつまで続けられるか悩みながら、コンセントレーションが低下する前にメスを置こうと考えている今日この頃である。

(一部省略)

長野県 長野医報 第638号より

関連キーワードから検索

戻る

シェア

ページトップへ

閉じる