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平成29年(2017年)2月5日(日) / 南から北から / 日医ニュース

手塚君との思い出

 小生は昭和21年4月に大阪帝国大学医学専門部に入学した。旧制門司中学を5年で卒業し、浪人してからの合格であった。
 第5講堂の隣席に座った同級生とあいさつし、自己紹介した。1年上から落ちてきた手塚治君とは、この時から同級生となった。彼は、宝塚の裕福な家の出であり、旧制北野中学からの4年飛び級入学とのことである。お出来は良かったのであろう。余りものも言わず、初めからの交流はなかった。
 翌年、組織学の顕微鏡実習が始まった。スケッチを提出すると、どれも58点とか56点とかでやり直しである。隣の手塚君は常に80~90点で、一発合格であった。実習の最中に、手塚君が何かで席を外している間に、こっそりそのまま真似てみたところ、あっさり合格。何が良かったのかははっきりしないが、ポイントをつかむのが上手だったのだろう。彼にはのぞき見したことを正直に話し、以後、正式に許可をもらいスケッチを真似ることにした。
 それから、実習中に相談したり、スケッチを見せてもらい交流が始まった。そのうちに、講義の出席代返をよく頼まれるようになった。思い返せば、かなり頻回であった。3~4日いないこともあった。代返の後は必ず、学食でうどんか定食をおごってもらった。昼食にも事欠く貧乏学生だった小生には、有り難い話であったので、毎回ごちそうになった。ただ、代返の理由を尋ねても、いつもはぐらかされて、はっきりしなかった。単なるサボりではなく、何か目的があって遠隔地に行っていたのかも知れない。
 学年が上がり、試験の回数も増えた。当時の大阪は慢性の電力不足で、ろうそく送電であった。裸電球は暗く、時々停電した。やむなくランプを使ったが、本を読むのには苦労した。それでも、進駐軍の宿舎は街灯まで煌々(こうこう)と灯りがついていた。どてらを着て街灯の下で、寒さに耐えながら立ったまま勉強した。
 臨床実習が始まると、彼とはグループが違い、いつの間にか交流も少なくなっていった。
 昭和26年3月、5年間の学業を終え、大阪帝国大学医学専門部の最後の卒業生となった。卒業数年後に同窓会が大阪であったが、幹事から、手塚君が医学博士を奈良県立医科大学で取得したこと、本日欠席ではあるが、数十人分の会費の寄付があり、盛大な同窓会ができることになった旨の報告があった。
 結婚し、翌年長男が生まれた。日本の高度成長期に当たり、東京オリンピック前には、テレビも購入できた。小学校に入学した長男とテレビを見ていたところ、鉄腕アトムの放送があり、原作者の紹介で、久しぶりに手塚君の顔を見て、学生時代の記憶がよみがえった。いつからか、彼は手塚治虫になっていた。
 長い年月が経った。手塚君は勲章はもらったが、60歳で亡くなり、同級生の多くも鬼籍に入ってしまった。
 青春の一時期、たまたま座席が隣になっただけではあったが、誰もが知っている人物との交流を思い出すにつれ、何かに残しておこうと思った次第である。

(一部省略)

福岡県 北九州市医報 第701号より

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