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平成29年(2017年)8月20日(日) / 南から北から / 日医ニュース

わが家の士農工商

 今どき聞くことも少なくなったが、亡父は明治の生まれである。本人は格別それを誇りにしていた。
 母親は戦時下、女学校に勤務していたある日、喜々として帰宅した父親から、「結婚が決まったぞ」と告げられた。目線を上げてはならぬと厳命され、形ばかりの見合いをして結婚した。従って父と所帯を持つまで、母は亭主の顔がよく分からなかったという。
 母方は生粋の農民である。父親が無理して娘を大学に行かせたのが功を奏し、医者との縁談が持ち上がった。気位の高い父の母は不満であった。わが家は士族である。よりによって農民の娘などと言って反対したが、女っ気のなかった父が一目で母を気に入り、無理を通したようである。
 明治男は気位が高い。日清・日露戦争を制し一等国になったのは、わが明治人の偉業によるものである。しかるに終戦後、日本男児は軟弱になったと、父はしばしば不機嫌であった。潔癖漢で、戦後、闇米に手を出さず餓死した裁判官を悼み、息子に「正義」と命名した。およそ開業医らしからぬ横柄な診療であったから、評判はすこぶる悪く、母を嘆かせた。
 家族に対しても君主のごとくで、人の意見はまるで聞かない。言いにくいことは全て母に代弁させた。食事は寡黙に済ますのをよしとし、無駄口をたたくとじろりとにらみつけるという具合であった。ちゃぶ台の上はいつも父の膳だけがお頭付きで、ほかは質素そのもの。母にいたっては父の残り物を片付けるのが日課であった。夫婦のいさかいは、ほとんど父の身勝手が原因と思うが、何しろその口上がふるっている。子ども心にも印象に残ったから、よく覚えている。
 「無礼者め。百姓の分際で口答えをするな」。昭和30年頃の記憶である。
 父は士族を盾に空威張りを続け、65歳で早死にした。母は農民を代表してこれに耐え、父の死後1年だけは、この世も終わりとばかりに泣いて過ごしたが、その後はケロリと忘れ、95歳の現在まで元気に余生を過ごしている。すでに10年以上、母の口から亡父の話が出たことはない。
 これでは夫婦の絆などともったいぶっても、もはやうたかたのごとしである。たとえあの世で再会できたにせよ、いきなり母もなれなれしく近づくわけにはいくまい。65歳で死んだ父も100歳を迎えようとする妻を見て、絶句するのではないか? 近い将来、同じ墓に納めるのはいいが、果たしてどうなることか。あの世でも士農工商のバトルは再開されるであろうか。

愛媛県 松山市医師会報 第312号より

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