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平成29年(2017年)9月5日(火) / 南から北から / 日医ニュース

父の遺してくれたもの

 昨年、福岡から別府へ異動となり、病院敷地内の宿舎で一人暮らしを始めた。一人の時間が増えたせいか、今まであまり思い出すこともなかった、亡くなった父のことを、気がつけば、あれこれと考えてしまうことがある。
 父は、昭和一桁生まれの平凡なサラリーマンだった。酒も飲まず、たばこも吸わず、これといった趣味も無かったように思う。いつも苦虫を嚙みつぶしたような顔をして、会社と自宅を黙々と往復していた姿を覚えている。出世とは無縁の人だった。
 父が亡くなった3年前の秋、遺品の中に数冊の古びた大学ノートを見つけた。日々の仕事の内容が、事細かに綴(つづ)られているだけで、私にはさほど価値のあるものとは思えなかった。
 その価値を私に教えてくれたのは、大学生になる私の息子である。ノートから垣間見える父の仕事に対する姿勢が、ひたむきでカッコイイと言うのである。息子はこの古びたノートを、下宿先の机の上に宝物のように飾っている。
 私が息子と同じ年の頃は、社会がバブル景気に浮かれていた。当時、貧乏学生だった私も例外ではなく、気分だけはどこか調子に乗っていたような気がする。分かりやすく豊かに見えるものに憧れていて、間違っても、父の書き残したノートに価値を見出すようなことはなかっただろう。
 父は退職後も自宅の机に向かって、毎日ノートを書き続けていたようである。仕事をする必要が無くなっても、仕事から離れられずにいた。今思えば、仕事を続けているのだと錯覚していたのかも知れない。
 父は若年性の認知症だった。日を追うごとに、父の言動は過去へ過去へと引き戻され、ノートに字が書けなくなると、すぐに寝たきりになった。
 最後の10年程は、父を人工呼吸器につないでしまった。ただ生きていて欲しいと願ったばかりに、父には苦しい思いをさせた。そのことについて考え始めると、決まって袋小路に追い込まれていくような気持ちになる。
 父はとても無口な人だったので、生前、自分自身のことを私に語ってくれるようなことはなかった。私は勝手に、私の価値観で、父の生き方を苦行のようだと思い込んでいた。
 「おじいちゃんは、天職に巡り合えた幸せな人」。父のノートを見れば誰にでも分かることなのに、私は息子の言葉で気づかされた。
 「幸せな人」。この意外な言葉が、じんわりと胸に染みてきて、袋小路の私を助け出してくれるようである。
 父の遺してくれたものは、とても豊かなものだった。寡黙な父が、言葉では言い尽くせないことを語ってくれているのだと思う。人工呼吸器につながれて、声さえ失ってしまったが、あの最期の父の姿は、医師である私に「気を抜くな、しっかりやれ!」と言っているようである。

大分県 別府市医師会報 第185号より

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