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令和2年(2020年)7月5日(日) / 南から北から / 日医ニュース

「ありがとう」の花を咲かせましょう

 雨にぬれた紫陽花(あじさい)の美しい昼下がり、ケアセンターの医務室に車椅子に乗った60歳くらいに見える(実年50代)般若(はんにゃ)の面でも被ったような怖い顔をした女性が現われた。
 「どうされましたか」と尋ねると、右半身麻痺の体を乗り出すようにしてたどたどしい言葉で、「全身、しびれて苦しいの。薬をもらっているけれど効かないのよ」「何年くらい経ちますか」「10年よ。一番下の息子が高校を卒業して就職が決まったので、離婚しようと思って八王子の家庭裁判所に行った夜に脳出血を起こして、それ以来なの」「今、あなたの世話はどなたがして下さっているの」「主人よ」「それ以来ずっと?」「そう。始めの頃は右側だけがしびれていたのだけれど、何年か前から全身しびれるようになったのよ」「つらいわね。ところで、ご主人にありがとうって言ってますか」
 「なぜ? だって私ができないのだから仕方ないでしょ。ありがとうなんて言えないわ」「どうして?」「私、3人の子どもがいるの。主人は雇われ大工だから、地方へ行ったら1カ月くらい帰って来ないことは当たり前なの。帰って来られないことは仕方ないとしても、お金を送って来なかったのよ。私は内職をして、子ども3人、高校を卒業させたの。そこで離婚しようと決めたのよ。そんな主人にどうしてありがとうを言わなくてはいけないの」
 「それは大変だったのね。調停の手続きをしに行った晩に具合が悪くなってしまったのだから、離婚するなということなのよ、きっと。病気になる前のことはまず置いておいて、病気になってからの10年間、いえ、昨日、今日のことをありがとうと言って頂くわけにはいかないかしら」「できない。ありがとうなんて言えない」「そうね。本心から言わなくてもいいわ。女優さんになったつもりで、ありがとうと言って頂けないかしら」「え! 女優さんになるの? 先生にお願いされたら仕方ないわ。女優さんね」と言いながら、部屋を出て行った。
 枯葉の舞う暮れも迫った12月、ケアセンターの入口で車椅子に乗った彼女が満面の笑みで「こんにちは」と出迎えてくれた。私は、さてこのお方はどなただったかしらとクルクル思いを巡らせてみるものの、初めて会う人だと思った。
 医務室に彼女も入ってくる。机の上のカルテを見てびっくりして、「あら、Mさんではないですか。お久しぶり。あまりに美しくなられたので分からなかったわ。ごめんなさい」「やっぱり分からなかったのね。あれから毎日ありがとうを言おうと思っていたのだけれど、口の中で止まってしまって声にならないの。言おう、言おうと思っているうちに体のしびれはいつの間にかなくなってしまったの。そんな日が毎日続いて、4カ月くらい経ったある日、買ってきてもらうものを書き始めて廊下を見たら、トイレットペーパーがちゃんと置いてあるの。言わなくてもちゃんとやってくれている。今日こそ、ありがとうと言おうと思ったの。でも、主人の顔を見たらのどまでで、口からはありがとうが出ないの。自分がちょっと情けなかった。明日こそ、明日こそと思うけれどいつも駄目」と言いながら、彼女の眼はキラキラと輝いている。
 「12月10日だったかしら。また洗剤とトイレットペーパーが廊下に置いてあるのよ。もう今日こそ言おうと決心したの。女優になったつもりなんて全くなく、ただ何てありがたいことだろうと思ったの。主人の帰ってくる時間に玄関で待ったの。何としても言わなくては申し訳ないと思ってね。玄関のドアが開いた時、『お帰りなさい。ありがとう』と言えたのよ。うれしかったわ。『何だよ。どうしたんだ』と夫の一声。私はうれしくて、ありがとうを連発したの」「良かったわね。よく頑張ったわね」と私は彼女を抱きかかえていたのです。
 お正月も明けた木枯らしの吹く寒い日、彼女が見えて、「うれしいことがあったのよ。お正月に主人が言ったの。今までで一番良い正月だなって。『お父ちゃん、いつもと何も変わっていないよ。何がそんなに良いの』と尋ねると、『お前がいつでもにこにこ、にこにこしているじゃないか。こんな良い正月、生まれて初めてだよ』と言ったの。私、とてもうれしかった。先生のお陰でこんなにすばらしい日が頂けたので、お礼が言いたかったの。ありがとうございました」と言って部屋を出て行った。
 この話は35~6年前のことです。たった5文字の「ありがとう」の効力のすごさを教えて頂いた症例です。
 「ありがとう」は言ってもらうのではなく、自分から発信するものです。そうしているうちに、家中、職場中に「ありがとう」の花が咲きます。一人でも多くの人に、世界中に「ありがとう」の花を咲かせて頂きたいものです。

(一部省略)

東京都 三鷹医人往来 306号より

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