日医ニュース 第976号(平成14年5月5日)

日本の医療の実情[6]
―持続可能な医療体制のために―
日医総研 研究部長 石原 謙(愛媛大学医学部医療情報部教授)

 数回にわたり,日本の医療の経済的な面から考察を試み,実需と成長性の高さから,最大の戦略産業でもあり,雇用の場であることを述べた.しかし,医療・福祉などの社会保障は,経済的視点を離れても,教育や農林水産業などと並んで,国民を守る国の安全保障の根幹でもある.
 狭い経済論に振り回されていては,患者さんを守れない.医師のプロフェッショナルフリーダムは,気ままな医療をするためではなく,専門知識のない患者さん自身の代理人として,最善の医療を受ける権利を守るためにある.経済論を越えた見識でこの国を守ろう.

教育は国家の存亡に関わる大事

 まず,お詫びしなければならないのだが,本紙二月五日号の第四回の本記事で〈現代の米百俵〉として,「米百俵話は,本来は耐えるばかりの話ではない.未来を開拓する投資として,教育に投資した話である.―中略―では,現在の米百俵話として,何に投資するか.教育はすでに少子化の開始とともに,入学減でつぶれる大学・高校が続出するデモグラムであり,量的投資の拡大はまったくのナンセンスであることは周知のとおり」と記載した.しかし,これは私の認識不足であった.不勉強の不明をお詫びするほかない.
 日経新聞二〇〇二年三月五日「再び教育を問う五」によると,鳥取県の片山善博知事は,二月十三日,県職員の給与を五%カットし,その財源で,小学一,二年生全クラスの人数を三十人以下にすることを表明し,「文部科学省は,指導要領以上を教えるのは自由というが,いろいろ制約がついている.もっと参考基準的なものにすべきだ」と指摘.また,山形県は,来年度予算に七億二千五百万円を計上.非常勤講師を最大百六人採用して,小学一〜三年生を二十一人から三十三人のクラスにする.朝日新聞二〇〇二年三月十日でも,文部科学省の基準である四十人学級を下回る少人数学級を五県(秋田,新潟,広島,愛媛,鹿児島)がすでに実施し,この新年度からは十一県(青森,山形,福島,茨城,埼玉,千葉,長野,岡山,鳥取,山口,宮崎)が予定しているとのこと.
 日本の唯一の資源である人への教育の重要性については,認識しているつもりであったが,初等教育の現場で,こういう大きな課題と投資のニーズがあることを知らず,過日の記述をしてしまったことをお詫びして訂正するものである.
 全県職員について五%もの給与カットを断行し,現代の米百俵を行った知事と県民の方々には,深甚なる敬意を表すものである.二十に近い県で,教育へのさらなる投資を英断している実情は,わが国政府のお寒い教育政策への危機感から来るものであろう.
 文部科学省による平成十四年度版教育指標の国際比較(http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/14/01/020101.htm)でも引用した次の表のように,初等教育,高等教育ともに先進諸国のなかで肩身の狭いGDP比の数値が並ぶ.
 学級編成基準をみると,日本の四十人というのが,先進国中最多の学級人数という恥ずかしい状態である.多くの生徒を抱えて,個性を育む教育を要求されている先生方の姿は,大勢の患者さんを抱えて,それぞれの個別医療を要求されている医療人の姿にまさに重なる.教育についても,まだ政策的投資が足りない.

国内総生産GDPに対する公財政支出学校教育費の比率

医療もまた国家の安全保障上重要な領域

 教育は国家百年の計といわれるように,国民一人ひとりの高い教育レベルに裏付けられた市民感覚のみが狭い国土を繁栄させ,安全な国家たらしめる.これまで,日本は世界一治安が良く,安全な国といわれてきたが,それは島国と歴史の偶然に依るのではなく,人々の高い教育レベルと相互扶助の社会保障感覚があったためである.
 江戸っ子は宵越しの金はもたないという言葉が示すように,日本では貧乏でも相互扶助(共助)が機能し,今でいう社会保障は何とかなるという安心感,つまり心の平安が,人々を凶暴な略奪集団となることから守っている.このように,医療や教育は,国家にとって単純な経済学の物差しでは測れない安全保障の側面も大きい.
 筆者の浅学な考察のみでなく,高名な経済学の先達もすでにこれを明瞭に指摘している.人間の心を考えることがタブーであった経済学に,社会的共通資本という概念を用いて,教育や行政などとともに,医療をも「制度資本」という形で学問的に定式化された宇沢弘文博士は,この業績で九十七年に文化勲章を授与された.宇沢博士は,一九六〇年代に理論経済学の最先端に立っておられたが,現代文明を根源的に問い直して,経済学のあり方について根本的再検討を開始されたのである.
 業績の一部である「社会的共通資本」にかかわる研究の概略を紹介する.一九八〇年代末以降の社会主義圏の崩壊が,あたかも資本主義の勝利であるかのように議論され,市場経済への過剰な期待が膨れあがったが,博士はそれを幻想にすぎないと指摘したのである.資本主義や社会主義といったこれまでの概念を越えて社会の本質を捉え直すと,そのとき基軸に据えられるべき概念が「社会的共通資本」であると説いた.
 この「社会的共通資本」とは,それぞれの地域に住む人々が,豊かな経済生活を営み,すぐれた文化を育み,人間的に魅力ある社会を安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する.つまりは国力の維持,広義の国の安全保障のインフラシステムである.具体的には,大気・森林・水などの「自然環境」,交通機関・上下水道・電力などの「社会的インフラ」,教育・医療・金融などの「制度資本」の三つからなるものである.< BR>  さらに,われわれ医療人が意を強くできるのは,これら社会的共通資本の管理・運営を,政府の官僚的機構によってではなく,また,市場原理に基づいてでもなく,それぞれの分野における職業的専門家の専門的な知見に基づいて,職業的規律に従って行われねばならないという鋭い指摘である.(「社会的共通資本」岩波新書)
 博士はいう.―例えば,医療は,無制限に供給できない.専門家や病院は,希少資源なのである.医療施設・設備をどこに作るか,専門家を何人養成するかは社会基準に従って配分されなければならず,その基準を決めるのは官僚ではなく,医療にかかわる専門家が職業規律や倫理に照らして決めなければならない.そのためには,同僚の専門家の評価を受けながら,能力,力量,人格的な資質などが常にチェックされるような制度的条件が整備される必要がある.このような条件が満たされてはじめて,国民医療が決まる.大事なのは医療を経済に合わせるのではなく,経済を医療に合わせるのが社会的共通資本としての医療を考えるときの基本的な視点なのである.―日経新聞本年三月二十五日「私の履歴書」より引用,一部筆者による省略.

医療は国の安全保障の根幹

国家的危機管理としてみるべき医療

 医療は,最大の実需と成長を伴う戦略産業であるとの経済的観点からも,ここに投資すべきであるが,先に述べたように,さらに,根本的には,社会保障として国全体の安全保障の根元を成すものであり,仮に経済的疑問が残った際にも投資しておくべきものだ.
 自衛隊なしで国土を守れるというような空想論は無意味だが,自衛隊のみが守れる国家などは,このグローバリゼーションとテロリズムの時代にはもはやない.国民の一人ひとりがその責を果たし,勤勉に働く者なら等しく幸福になれる国家のみが,国民の忠誠心を獲得できて強靱である.
 この観点からすると,人に投資をせず,地元の反対を押し切ってまでの土木工事に明け暮れるわが国の政府には,国家の危機管理能力が欠如するのではないかとすら懸念する.消費性向をますます退縮させる政策ばかりで,国民に無用な我慢を求める医療改革という名の改悪は,医療危機というよりも,むしろ国家の危機ではなかろうか.
 プロフェッショナルフリーダムは,決して専門家が好き勝手な診断と治療をして良いというものではない.医療人のためではなく,患者さんの代理人として保証されるべき権利である.専門知識のない患者さん自身の誠実な代理人として,最善の医療を受ける患者さんの権利を守るためにこそある.
 患者さんを守るべきプロフェッショナルフリーダムを思えば,皮相な一部経済人の今の市場経済論での医療改革という名の医療制度破壊には,断固立ち向かわなければ,患者さんを守ることにならない.志ある医療人ならば,経済論を越えた見識でこの国を守ろう.


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