日医ニュース
日医ニュース目次 第1024号(平成16年5月5日)

No.7
オピニオン

社会保障の受益者はだれか
山口二郎(北海道大学大学院法学研究科教授)

 昨今,年金問題を中心に社会保障制度改革の議論が活発化している.今回は,これまでの社会保障政策とは異なった,人間はもろいものであるとの前提に立った新たな社会保障政策論を展開している山口二郎教授に登場してもらった.(なお,感想などは広報課までお寄せください)

山口二郎(やまぐちじろう)
北海道大学大学院教授.昭和33年生まれ,昭和56年東京大学法学部卒.北海道大学法学部助教授・教授を経て,現在に至る.コーネル大学,オックスフォード大学などに留学.著書には「一党支配体制の崩壊」(岩波書店),「日本政治再生の条件」(岩波新書)など多数.

 このところ年金問題を中心として,社会保障制度の改革をめぐる議論が盛んである.そこで焦点となっているのは,受益と負担の関係である.
 この点に関しては,保険料負担の増加を嫌う経済界の声の大きさが際だっている.この種の議論においては,経済団体の保険料抑制論に現れているように,受益者と負担者とが別であるという認識が暗黙の大前提となっている.
 さらに,年金問題に関しては,現在の受給者と,現在はもっぱら掛け金を払うだけの若い世代との間の世代間対立をあおる議論もある.その点こそが,日本の社会保障論議を不毛にしている最大の原因ではないかと考えられる.

日本の社会保障の概念

 日本の政策体系においては,一応,社会福祉と社会保障が区別されている.前者は,障害を持った気の毒な少数者のために政策的な保護,援助を与える政策で,後者は,社会福祉を含む,広く国民の生存権を確保するために国民全体を対象とした政策というのが一般的な理解であろう.しかし,日常の議論において,両者は厳格に区別されているわけではないように思える.社会保障といえば,健常者が費用を負担して,病んだ者,老いた者を救済するというイメージがある.また,日本では,自助と公助という言葉があたかも対立概念であるかのように使われている.即ち,公助といえば政府の援助に依存するやり方,自助といえば貯蓄など個人の努力によって生活を支えるやり方を意味する.しかし,政府が使うお金の出所は国民であり,公助を政府という媒介を通した国民自身の自助と捉えれば,二つの概念を対立的に捉える必要はなくなるはずである.
 こうした問題の捉え方の背景には,「普通」「通常」「健全」といった社会の多数派をくくる概念に独特のバイアスがあるように思える.健常者はあくまで健康で,稼ぎがある人々であり,障害者,弱者と交わることはない.そもそも健常とか障害といった言葉の持つどうしようもない差別的な響きを感じ取る者は少ない.ちなみに札幌市では,この響きを少しでも和らげるために「障がい者」という言葉を使うようになった.経営者は自らや従業員がいつまでも稼いでいるという前提で,若者は自分がいつまでも若いという発想で年金問題を論じる.社会の多数派が被害者意識を持つがゆえに,社会保障や福祉を経済のお荷物のように扱う議論が広く受け入れられる.このように強い人間を前提とした経済社会モデルは,昨今の新自由主義的な構造改革論と親和的である.

日本を停滞させる最大の原因

 しかし,自分を常に健常の側において,気の毒な者に恩恵を与えるという発想で社会保障問題を考えることこそ,少子高齢化社会日本を停滞させている最大の原因である.
 現在の日本経済の長期停滞は,人も企業も将来不安におびえ,投資や消費を縮小させているところに原因がある.経済の縮小は,若者の雇用難をもたらし,将来展望をもてない若者は,勉強,努力,研鑽に励むインセンティブを失う.若い世代の人的資本の劣化は,日本の未来像をさらに暗いものにするという悪循環が続く.私の年下の友人のなかにも,将来の日本を悲観して,子どもを作らないという人が多い.
 こうした悪循環を終わらせるためには,経済社会モデルの前提にある人間のイメージそのものを変えることが必要である.まず,新自由主義的な改革の前提にある非現実的で,あまりにも楽観的な人間観を捨てなければならない.経済的競争に参入し努力をすれば,だれでも成功した起業家になれるという竹中平蔵氏の好む訓話は,あくまでおとぎ話でしかない.人間はもろい(vulnerable)存在である.今は強く,稼ぎのある人も,何かの要因で病気になったり,失敗したりする.また,老いはだれにも平等に訪れる.もろさ(vulnerability)を共有しているという点で,健常者と弱者を区別することは無意味である.病者,障がい者は,たまたま,そのもろさが早く現れた存在に過ぎない.

21世紀に不可欠な構造改革とは

 スウェーデン,デンマークなど北欧の福祉国家においては,国民所得に対する租税・社会保険料負担率が七〇%を超えている.日本の常識を当てはめれば,なぜ,国民がそのような苛斂誅求を受容しているか不思議に思える.日本では,江戸時代の「五公五民」の昔から,税というものは人民が権力者を扶養するために差し出すものという感覚が続いている.そうであれば,高い負担率を受容することなど理解不能である.しかし,西ヨーロッパの国々では,健康で自立した生活をしている人々は負担者であると同時に,社会保障の最大の受益者でもある.大きな租税・社会保険の負担は,必ず国民に社会保障政策として戻ってくる.医療,介護,保育,教育など,人間が生きていくうえで不可欠な社会サービスが,廉価あるいは無料で利用できる仕組みがあるからこそ,人々は安心して働き,未来の可能性に挑戦できる.人々は,自分がもろい存在であることを知っているから,ある程度の負担をして,もろさが露見した時に備えるという仕組みに参加し,それを支えている.
 二十一世紀,日本にとって不可欠な構造改革とは,決してアメリカの後を追って強い人間にとってだけ都合のよい社会経済システムを作ることではない.医療保険に入れない人間が,人口の二割近くもいるような国を,なぜ模倣しなければならないのか,私には理解できない.弱者,少数者のための社会保障という観念を改め,人間のもろさという現実のうえに,すべての国民が負担者であり,受益者でもあるような社会保障政策を構築することこそ,構造改革の真の課題であると思う.

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