日医ニュース
日医ニュース目次 第1060号(平成17年11月5日)

NO.25
オピニオン

医療と確率
村上陽一郎(国際基督教大学大学院教授)

 インフォームド・コンセントを行う際に,過去の症例統計を引き合いに出して説明される先生方は多いと思う.その際に使われる確率を,患者さんはどのようにみているのか,村上陽一郎国際基督教大学大学院教授に指摘してもらった.
(なお,感想などは広報課までお寄せください)

村上陽一郎(むらかみよういちろう)
 国際基督教大学大学院教授.東大大学院人文科学研究科比較文学・比較文化専攻博士課程修了.東大教養学部・工学部教授,東大先端科学技術研究センター長等を経て,現在に至る.専攻は科学史,科学哲学,科学技術社会学.

 今さらインフォームド・コンセントでもあるまい,とおっしゃる読者も多いだろう.確かに,今日,この言葉は,医療関係者ならば知らない人はいないし,患者もまた,それを自分たちの権利と心得るようになってきた.それは,医師が自ら選択しようとしている治療法について,内容,あり得べき選択肢,そのなかでの自分の選択理由などについて,患者に納得のいく説明をしなければならない,というだけにとどまらない.
 例えば,薬剤師法の改定で,服薬指導が権利付けられる(あるいは義務付けられる)ようになって,保険のなかで点数化もされたが,処方されている薬剤に関する十分な説明をする,という点では,これもインフォームド・コンセントの一部である.
 もっとも,ここにも厄介な問題が顔を出す.これまでの薬剤師は「臨床」,つまりは患者と直接接してコミュニケーションを行い,的確に必要な情報を患者に伝え,また逆に,患者から的確に必要な情報を引き出す,というような訓練をまったく受けてこなかった,という事情があるからである.修業年限が延び,臨床訓練もカリキュラム化されるようになったが,道はまだまだ遠い.
 医師の場合は,古くから「ムンテラ」などという言葉が使われてきたように,患者との口頭での意思疎通は,決して十分とはいえないまでも,それなりに訓練がないわけではなかったことを考えると,現在の薬剤師たちの困惑は,想像に難くない.
 例えば,治療試験における副作用の様態を,どのように患者に伝えるべきか,服薬指導が法制化された直後に,長野県上田市で起こった医師会と薬剤師会の不幸な軋轢も,少なくとも一部に,その問題が絡んでいたことは確かである.それはインフォームド・コンセント一般の問題でもあるが,ここで浮上するのが,患者の側のリテラシー(理解力)である.

リテラシーの育成が必須課題

 ここで,医療とはまるで関係のない話をしてみよう.原子力の安全を論じる際に〈PSA〉という手法が採用される.〈Probabilistic Safety Assessment〉の頭文字をとったものだが,要は「確率」を使った「安全評価」のことである.「しかじかの事故の起こる確率は,もろもろの根拠を総合すると,十のマイナス七乗年に一回である」といったいい方がその典型となる.しかし,現在こうした表現は,一般の人々の間には,ほとんど意味を示さない.パブリック・コメントを募集しても,こうした表現があると「反応はなし」ということが多い.つまり,“十のマイナス七乗年”などという用言に対するリテラシーが欠けているのである.
 そこで治験の話に戻れば,安全性試験で見過ごすことのできないような副作用が出現する確率は,通常許可されている薬剤でも,十のマイナス七乗などという数値からすればはるかに大きいはずだが,そうした「確率」的な意味合いが,そのままでは患者の側に伝わらない恐れは十分に存在する.つまり,そうした確率的表現に対するリテラシーを持たない患者に,それを生に伝えても,無理解を生み出すことにしかならない,ということは十分想像できる.一般の人々の間に,そうしたリテラシーを育てることは,現代社会における必須の課題でもあるのだが,現実には,そういう点も十分に考慮したうえでの,賢明な情報提供が大切になってくる.
 しかし,ことは薬剤師だけに限ったことではない.医療は本来〈PSA〉的な営みなのである.医師においては,過去の症例の統計から,しかじかの治療法を採用すれば,六〇%以上の治癒率が期待できる,というような判断に基づいて,治療法の選択が行われるからである.仮にAという治療法が六〇%以上の治癒率を期待できるのに対して,Bという治療法が四〇%であれば,そして両方が,取り立てて困難なく実行可能であるとすれば,Bを選択する医師はいないだろう.そして,患者に対するインフォームド・コンセントに当たっても,医師は,自らの選択の根拠に,そうした過去の症例統計を引き合いに出すであろう.これは十のマイナス何乗というような話ではないので,患者もまた,そうした統計的,かつ確率的な根拠を理解し,受け入れるのに,それほど大きな困難は伴わないかも知れない.

患者にとっての“確率”とは

 けれども,ここでは,単なるリテラシーの問題を超えた,もう一つの,確率にまつわる本質的な問題が姿を現す.それは,確率が患者にとっては「本質的に」意味をなさない,という側面を備えていることに由来する.確率は,常に「アンサンブル」を土台にしている.一個の事象(シングル・イベント)について確率を云々する例としては,量子力学がある.しかし,一つには,それは原子以下のレベル(素粒子レベル)で初めて意味を持つものであり,二つには,それでもなお,そうした事態を理解不能として退けた物理学者(その最も著名な例がアインシュタインであった)が多数存在したことからも分かるように,とても,通常の,あるいは常識的な範囲のなかでは通用しないものである.
 過去の症例が,たとえ一〇〇%治癒を保証していたとしても,今その治療法を受け入れようとしているこの私に対して,十分な治癒が実現するとは限らない.まして,九五%の治癒率であったとしても,患者である私は,九五%の方に入るか,五%の方に入るかのどちらかであって,私が九五%良くなって,五%だけ悪いままである,などということは,決してあり得ないのである.それは,降水確率が六〇%という天気予報に対して,私が傘を六〇%持っていくことがナンセンスであるのと同じである.
 確率的方法が,「科学的合理性」の重要な要素の一つであることは疑い得ないが,それでもなお,私たちは,それをもって十分に「納得」するわけではない,ということを,医療関係者も十分考慮してみる必要があるだろう.

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