日医ニュース
日医ニュース目次 第1074号(平成18年6月5日)

NO.32
オピニオン

「医の倫理綱領」―「医は仁術」は,もはや死語か?
畔柳達雄(弁護士)

 医の倫理を考える際に,「医は仁術」という慣用句を思い出される方も多いだろう.「この言葉はあまり使われなくなったが,その精神は脈々と引き継がれている」と主張する畔柳達雄氏に,その根拠を指摘してもらった.
(なお,感想などは広報課までお寄せください)

畔柳達雄(くろやなぎ たつお)
 日医参与,弁護士,法学博士.昭和30年東北大学法学部卒,昭和32年弁護士登録.昭和52年第2東京弁護士会副会長,日弁連理事.放医研,感染研倫理審査委員.

 平成十六年二月,平成十四・十五年度「会員の倫理向上委員会」は,平成十二年四月の日医定例代議員会で採択された「医の倫理綱領」を敷衍し,補完する意味を持つ「医師の職業倫理指針」を作成し,日医会長宛答申した.指針は理事会に報告され,同年四月一日号日医雑誌付録として,全会員および関係諸機関に配布された.
 しかし,そこで手続きが停止し,代議員会に付議されていないのは,会員倫理規範の一つと位置づけた「診療情報の提供に関する指針」などの扱いとの対比において,問題である.随時引用されるだけに,早期解決を希望するものである.

「医は仁術」の語源

 「医師の職業倫理指針」作成の際に,森岡恭彦委員長の提案で,委員会で議論し話題になったことを専門家に解説をお願いし,日医雑誌に連載することになった.その成果を一冊にまとめたものが,平成十八年三月号日医雑誌付録の「医の倫理─ミニ事典」である.監修者に法律家も加わるようにと言われたことから,森岡恭彦先生の驥尾に付して筆者の名前がある.
 「医の倫理─ミニ事典」配布直後,親しい法律家の友人に,この本を贈呈した.同期の元最高裁判所判事からの手紙には,次の二点が指摘されていた.
 第一は「『医は仁術』というものがテーマとして取り上げられていないが,これはもはや死語になったということでしょうか」という問いである.第二は「倫理と道徳と法」の関係について,「われわれは(法学部学生時代には)もっと強烈に『法律は道徳の最小限』と教わっていたのであり,それを強調していただきたかった」との提言である.前者の問いは,私自身考えていなかった問題であり,まさに虚を突かれた思いがした.
 広辞苑には「(慣)医は仁術なり」とは,「医は,人命を救う博愛の道である」とあるだけである.
 「医は仁術」の語源について,関根透氏は,中国明代の「『古今医統大全』の記述からの引用が有力であると思われる」とされたうえで,陸宜(りくぎ)公(唐の徳宗の時代の宰相)の言葉「医は以て人を活かす心なり.故に医は仁術という.疾ありて療を求めるは,唯に,焚溺水火に求めず.医は当(まさ)に仁慈の術に当たるべし.須(すべから)く髪をひらき冠を取りても行きて,これを救うべきなり」(原文片仮名書き)を引用されている(「日本の医の倫理―歴史と現代の課題」学建書院一九九八年八十四頁).
 恐らく,これらを敷衍した貝原益軒の養生訓[正徳三年(一七一三)]では,「医は仁術なり.仁愛の心を本とし,人を救うを以て志とすべし.わが身の利養を専ら志すべからず.天地のうみそだて給える人をすくいたすけ,萬民の生死をつかさどる術なれば,医を民の司命という,きわめて大事の職分なり」「医となるならば君子医となるべし〜,君子医は人のためにす.人を救うの志専一なる也.〜医は仁術なり.人を救うを以て志とすべし.〜人を救うに志なくして,ただ身の利養を以て志とするは,是わがためにする小人医なり.医は病者を救わんための術なれば,病家の貴賤貧富の隔てなく,心を尽くして病を治すべし.病家よりまねかば,貴賤をわかたず,はやく行くべし.遅々すべからず.人の命は至りて重し,病人をおろそかにすべからず」と説いている.
 これらの書には,後世いつの間にか紛れ込む,家父長的な思考は全く見られない.

今も受け継がれる「医は仁術」の精神

 欧米では,資格を得た新人が医師専門職団体に加入する際に,“ヒポクラテスの誓い”を宣誓する習わしがあった.しかるに,現代医療と齟齬する部分が生じたため,一九四八年,ヒポクラテスの誓いの現代版ともいえる世界医師会(WMA)「ジュネーブ宣言」(最終改訂一九九四年)が,次いで一九四九年ロンドン総会で,職業規範の骨子を定めたWMA「医の国際倫理綱領」(最終改訂一九八三年)が採択された.
 一九八〇年代に入って,カナダ医師会(一九八四年),ドイツ連邦医師会(一九八五年),フィンランド医師会(一九八八年)など多数の世界医師会加盟国が倫理綱領・職業倫理規範を改めた.その際,参照されたのが,「ジュネーブ宣言」と「医の国際倫理綱領」であり,各国医師会はその内容を,ほぼそのまま,あるいは形・強調点を変えて踏襲したといわれる.
 ちなみに,「医の国際倫理綱領」はジュネーブ宣言に言及しながら,さらに医師の義務につき,(1)“医師は,個人および社会に対して専門的行為について常に最高水準を維持するべきである”(2)医師は“利益を得るという動機に影響されないで職務を遂行しなければならない”(3)医師は“患者や同僚医師に誠実に接し”,“その権利を尊重する”こと(4)患者の秘密を守ること─などを強調している.
 この四点のうちの,利益目的の否定は,守秘義務と並ぶ“ヒポクラテスの誓い”の核心部分である.しかも翻って考えるならば,陸宜公,貝原益軒らが説く「医は仁術」の語と共通の考え方でもある.
 日医の平成十二年「医の倫理綱領」は,WMAの「ジュネーブ宣言」に始まる医療倫理の国際的な流れのなかで,先行した各国医師会の倫理綱領を参照し,あるいは日本の過去の考え方にも考慮を払いながら,できるだけ簡潔な現代文にまとめたものである.
 日医の「医の倫理綱領」の前文,あるいは三項「医師は医療を受ける人びとの人格を尊重し,やさしい心で接するとともに,医療内容についてよく説明し,信頼を得るように努める」,六項「医師は医業にあたって営利を目的としない」と貝原益軒の解説とを比較すれば,両者は同じ趣旨を述べていることが分かる.古典的な意味での「医は仁術」の精神は,言葉こそ使われていないが,平成版「医の倫理綱領」にも脈々として継受されており,決して死語になってはいないと考えるが,いかがであろうか.

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