日医ニュース
日医ニュース目次 第1080号(平成18年9月5日)

プリズム

蕎麦昔話

 「東は蕎麦,西は饂飩(うどん)」と言われ,江戸では蕎麦と相場が決まっていた.しかし,蕎麦の発祥を見ると,実は大阪砂場の蕎麦屋が江戸に進出したらしい.
 江戸には三千軒を超す蕎麦屋があったとされるが,当時の人口からすれば驚くべき数である.蕎麦は鮨や天婦羅と共に今で言うファストフードとして,気の短い江戸っ子や参勤交代で殿のお供をしてきた単身赴任の武士たちに利用された.
 人が移動することで新しい食文化がもたらされることは珍しくない.
 保科正之は二代将軍徳川秀忠の庶子で,家光の異母弟である.母親は大奥で秀忠の乳母に仕えていた女性で,本妻・於江与の方の目を逃れ,宿下がりして生まれたのが「幸松」こと,後の保科正之である.慶長十六年のことであった.幸松は武田信玄の娘たちによって密かに養育され,武田家と縁のある信濃高遠藩主・保科正光の養子となる.
 最上義光没後,寛永十三年に山形に入部し,七年して会津若松に移封される.両地ともに蕎麦が名物だが,正之は高遠から信州の蕎麦文化をもたらしたのである.
 蕎麦は肥沃でない土地でも育ち,人々の命をつないできた.数年前,天保飢饉のころに備蓄された蕎麦の種子が発見され,「天保の蕎麦」として復活した.その栽培では,良い環境で育たず,むしろ厳しい環境で発芽し,成長したとのことである.蕎麦は忍耐強く,たくましい.

(海)

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