日医ニュース
日医ニュース目次 第1175号(平成22年8月20日)

「福星開壽域」
日医常任理事 石井 正三

「福星開壽域」/日医常任理事 石井 正三(写真)  日医会館三階の小講堂に,「福星開壽域 昭和二年春日 新平」と書かれた大きな扁額(へんがく)が掲げられ,歴代医師会長の写真と共に医師会活動を常に見守っている.温故知新の喩えにあるごとく,この来歴を尋ねることが日医の歴史に思いを馳せるのみならず,これからの医師会活動を考える一助になるとも思われたので,そのあらましを,ここに記載してみる.
 この扁額を揮毫(きごう)した後藤新平(一八五七─一九二九)は,医師にして行政官・政治家として勇名を馳せた人物である.昭和二(一九二七)年という年号から,この扁額は彼の晩年の揮毫ということになる.新平は新生日本の創生期に旧水沢藩の地に生を受けた.江戸時代後期の蘭学者・高野長英は大叔父に当たるようである.現在の福島県立医大の前身である須賀川医学校で医学を学んだ後,明治十五(一八八二)年内務省衛生局に入り衛生行政に携わる道を選択した.明治二十三(一八九〇)年にはドイツに留学し,医学博士号を授与されて戻ると,明治二十五(一八九二)年には内務省衛生局長に就任している.幾多の曲折とそれを上回る多彩な経歴を重ねることになるが,中でも特筆されるべきものの一つは,台湾総督府民政長官として現在の台湾大学医学部を創設したことであろう.
 その後,いくつかの大臣や東京市長職などを歴任し,関東大震災後に改めて内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の復興を図り,現在に至る首都の都市計画づくりに尽力した.これらのマスタープランや植民地計画などに見られる壮大さから,人呼んで「大風呂敷」とのあだ名を得たのは,彼にとってある種の尊称であったとも思われる.
 一方,この書が寄贈された時期に日医では北里柴三郎(一八五三─一九三一)が初代会長を務めていた.熊本県阿蘇郡小国町出身とされ,熊本医学校および東京医学校に学び,卒業後内務省衛生局に就職.明治十八(一八八五)年にはドイツ・ベルリン大学に留学してロベルト・コッホ教授に師事し,破傷風の研究によって勇名を馳せた.後藤新平のベルリン留学に際しては,公衆衛生学のみならず,当時最先端の学問であった細菌学の研修のためにコッホ教授を彼に紹介したのは北里柴三郎だったと言われる.帰国してからも研究活動に邁進していた北里は,やがて研究所を巡るさまざまないきさつなどを経て,大日本医師会会長に推戴(すいたい)され,大正十二(一九二三)年制定された医師法に基づいて成立した日本医師会の初代会長に就任した.「ドンネル先生」と畏れ親しまれたのは,いわゆる“雷親父”を洋風にひねったあだ名だったようである.
 冒頭に挙げた扁額にある,「福星」とは,中国的伝統によれば裕福な官服を着た老人で表され,木星としても象徴される神であり,一方「壽域」はよく収まった世という意で,台湾医師会前会長の呉運東先生によれば,ヘルスシステムとも解し得るとのことで,この五文字全体では「新生医師会長もしくはその統率下の医師会によって,善き社会そしてヘルスシステムが開かれていくように」という願いが込められていると思われる.
 明治というわが国の近代化を担った時代に,行政をはじめとしたさまざまな社会活動に,それぞれの立場で献身してきたこの両者の関係に基づき,正式な医師会長就任という節目に当たって,後藤新平から日医を率いる北里柴三郎に対して,医療者としての共通の立場に立ち返りながら贈られたものと思われる.それは,両者の晩年において,ひとときの精神の触れ合いの証のようなものではなかったかと考えられる.
 この扁額が,われわれの活動を静かに見つめていると改めて心に銘記することは,混迷に満ちた現状を啓(ひら)こうと行動する今日においても,また,来るべき未来を語る際にも意味があるのではないだろうか.
 (自著英文より自由に翻訳,Masami ISHII: The calligraphy in the JMA Hall. JMAJ.2010;53:62)

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