日医ニュース
日医ニュース目次 第1187号(平成23年2月20日)

日本医師会賞
「今日より明日」(全文掲載)
村野 京子(むらの きょうこ) 山口県防府市 52歳・会社員

 長く細い指から,煙草(たばこ)が消えた.
 吸いたくても手が動かない,歩きたくても動けない.彼は重度の脳梗塞だった.
 働きながら,一人で介護をする私は,気持ちが折れそうになる.失語症の彼に対して,苛立ちが募り,鋭い言葉を投げる.返ってこない返事.彼も言いたいことが山ほどあるだろう.いたわりのない自分が情けなかった.
 でも私には,柳のように,あるがまま受け流す余裕もなかった.ポキンと音をたてて,二人の心が泣いていた.
 それでも,朝はやってきた.週末は散歩がてら,スーパーに行く.賑やかな店内,ざわざわと人の波.車イスを押しながら回る.
 目の不自由な彼は,陳列棚がほとんど見えていない.思い浮かんだ物を次から次へと子供のように欲しがる.「今度ねだったら,もう,一緒に買い物に連れていかんよ」.遠い昔,亡き母に叱られた言葉を,同じように彼に掛けている.うふっと思い出し笑い.
 買い物袋はいつもお菓子でいっぱいになった.ビールが牛乳に代わり,おつまみは飴やチョコに変身した.
 家に帰ると,車イスからソファーに移す.
 「いい,私に,ぎゅっと抱きついてよ!」
 彼の両腕を私の首にまわす.
 「せえのお〜よっこらしょ」.身長百五十五センチの私は,百七十五センチの壁のような彼を一瞬立たせ,そのまま二人でソファーに倒れ込む.力いっぱいしがみついた彼の腕力に,身動き出来ない.もがきながら,彼の痩(や)せた胸に,顔を埋める.ふっと感じたミルクの匂い.
 「あれ,邦ちゃん,赤ちゃんの匂いがするよ」
 満面の笑みを浮かべた彼は「うお〜,ぎゅうにゅう」と,たどたどしく,一生懸命に声を発した.体に染みついていた,煙草の匂いは,幼子の香りに変わっていた.
 無邪気に笑う彼に,つい頬(ほお)ずり.私,苦笑い.彼,照れ笑い.そんな小さな笑顔にはっとする.毎日,こんなに楽しく介護が出来たらどんなにいいだろう.
 泣いて,怒鳴(どな)って疲れて,辛いことは,いっぱいある.ゆっくり食事をしてお風呂に入る,そんな贅沢(ぜいたく)が,一日でも欲しかった.
 その気はないのに,腹立ち紛れに,離婚という伝家の宝刀を抜いたこともある.
 「殺して」って言う彼に「私を殺人者にするつもり?」と声を荒げたこともある.戦争のような毎日を投げ出したかった.
 その頃からだった.胸が締めつけられ,手足が痺(しび)れるようになったのは.総合病院で検査を受けた.異常なし.そこで心療内科への地図を渡された.その地図を握りしめ,紹介された病院の戸を叩いた.
 小柄で物静かな先生は,一時間以上私の話を聞いてくれた.私は,彼の頻繁のトイレ.夜中に何度も起こされること.出勤間際に排便して,制服が汚物で汚れ,自分の感情が押さえきれなくなって,主人の太ももを平手で叩いたこと.そしてその場でわんわん泣いたこと.残業の出来ない私は,部署を変更させられたこと.それが悔しかったこと.しゃくりあげながら,心の内をぶちまけた.
 適応障害と診断されたが,先生は,「あなたなら,絶対大丈夫.愚痴を聞いてくれる友達が多いのは,あなたの人柄ですよ.周りの方があなたを見守っておられるのが,よく分かります.私にもまた,愚痴を聞かせてください.手抜きをする方法もみんなで考えましょう」.病院を出たときは薄暗くなっていた.
 「『適応障害』って言われちゃった」と十数人にメールした.とたんに,返事が追いつかないほどメールが来た.数人は会う日時を聞いてきた.一人は「あんたは絶対鬱(うつ)にはならないよ」と返事をくれた.嬉(うれ)しかった.
 以前から,ケアマネが特養ホームを捜してくれていたが,重度障害の上,インスリンや透析で,なかなか受け入れ場所がなかったのだ.赤ん坊以上に手のかかる彼を,仕事を続けながら一人で背負うのは,重すぎる.私の身を案じての話だったが,胸に痛みが走った.
 「共倒れになる前に,今後のことも視野に入れて,考える時期かもしれませんよ.でもね,奥さんの気持ちを最優先したい.そのためには,私たちは力を惜しまないから」と,ケアマネは言葉の最後に,力を込めた.優しい言葉を掛けられると,張りつめた気持ちが,頷(うなず)くように涙をこぼす.『やっぱり離れられない.最後まで一緒にいたい』.揺れる心がそう叫んだ.辛いことばかりではなかった.楽しいことは同じくらいあったはず.思いつめて,忘れていただけ.先生も,友達も,みんな私たち二人のことを心配してくれる.職場変更も,上司の私への配慮だったのだ.もうしばらく,支えてもらってもいいかな,そして,ほんの数グラム,頑張ってみようかな.
 今日より明日と言いつつ,結婚三十二年目を迎えた.何度も抜いた宝刀は,今では効き目がなくなってしまったが…….
 「邦ちゃん,起きて,朝日がまぶしいよ」

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