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にこにこ先生


下村 英里子(27歳)東京都中野区・団体職員

 小児外科医の父は、朝は私が起きる前から病院に行き、夜は私が寝てから帰ってくる。父親の顔を見るのは、本当に年に一度か二度、お盆か暮れの時期にお休みが取れたときだけで、幼稚園の父の日に「お父さんの似顔絵を描きましょう」と言われた時には、心底困ってしまった。父の顔が思い出せないのだ。
 仕方がないので、隣の子が描いている父親の絵を真似して描き、家へと持ち帰った。

 私の作品を受け取った母は少し変な顔をして、久しぶりに会った父はその絵を見て
「お父さんは眼鏡もかけてないし、髭も生やしてないんだけどなあ」
と笑っていた。私の描いた絵とは全然違う父の顔に、子供心に申し訳ないことをしたと胸を痛めたのを覚えている。

 たまにしか会えない父との小さいころの思い出は、数えるほどしかない。

 授業参観や運動会に父が参加したことは一度もなくて、小さい頃の写真には母と妹と私が、まるで三人家族みたいに写っている。だから、生まれて初めて父と一緒にディズニーランドに行ったときは、嬉しくて嬉しくて、鼻血を出すくらいはしゃいでしまった。

 冬の本当に寒い日、母が突然、父の病院に行こうと言い出したことがある。思い返せばそれは、父がかなり長いこと家を空けていた時だったと思う。

 足早に歩く母に手を引かれて、薄暗い廊下を抜けた先が医局だった。ノックをして入った部屋は汚くて暗くて、隅にソファが一つ置いてあった。父は白衣を着てそのソファに寝ころんでいた。

「お父さん、このお部屋に泊まってるの?」

「そうだよ」

「でもベッドがないじゃない」

「これがお父さんの立派なベッドだよ」

 寝転がった父の両足はベッドから飛び出していたし、それは子供目にも、寝返りなんか打てないほど狭いソファだった。
驚いて、言葉が出なくて、だけど父は笑っていて、楽しそうで、きらきら輝いていた。

 私の初恋の相手はきっとこの日の父だろう。

「まだお父さんと一緒にいたい。どうしてお父さんは帰ってこないの?」

 真っ暗な帰り道、繋いだ母の手を揺らして私は駄々をこねた。

「お父さんにはね、待ってる子がたくさんいるの。エリちゃんみたいな小さい子が、痛いのを我慢してみんなお父さんを待ってるの」

「待ってる子ってだあれ? お父さんはエリちゃんのお父さんじゃないの?」

「エリちゃんはどこも痛いところがないでしょう? だから寂しいのを我慢しましょうね」

 繋いだ母の手にぎゅっと力がこもった。

 母の口からは一言だって、父がいないことの不平や不満を聞いたことはないが、私以上に、母も寂しかったに違いない。

 父は子供たちに「にこにこ先生」と呼ばれていて、父の目尻の皺は年を重ねるごとに深くなる。それは子供たちの笑顔の数で、父の勲章で、私の憧れだ。

 昔、父に子供の頃の夢を尋ねたことがある。

「お父さんはね、船医になりたかったんだよ。たくさんの人の病気を治しながら、世界中を船で旅するのが夢だったんだ」

「ふうん。それじゃあ、小さい頃からずっとお医者さんになりたかったの? そんなの、つまんなーい」

 父はやっぱり、にこにこ笑っていた。

 もくもく入道雲が広がる真っ青な空と、太陽の光にきらきら輝く海の上に、汽笛を鳴らしてゆったり漂う、大きな一艘の船が見える。

 甲板には父が、白衣を風で揺らしながら立っていて、私は母と妹と、港で父が帰ってくるのを、手を振って待つのだ。

 待っているのは寂しい時もあるけれど、待つ人がいるというのは素敵なことだ。

 お父さん、今日もお仕事、お疲れ様。

 大好きな、私の世界一のにこにこ先生。