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アゲイン(生まれ変わる)


網 外志明(39歳)富山県氷見市・パート

 七年前の春。当時三十一歳。妻と娘、それにようやく出来た二人目の長男が妻のお腹にいることが分かった、幸せの絶頂期だった。

 たまたま行った献血がきっかけで発覚した「慢性骨髄性白血病」。それと移植の後遺症として発症した「閉塞性細気管支炎」が自分の名刺代わりとなる。

 兄がドナーとなり移植するも、一年足らずで再発。以後、薬剤副作用の影響もあり、肝機能、腎機能、目、骨、口と至る所に不具合が生じ、呼吸器障害のおかげで、身体障害者となり、ゆっくり歩く程度が精いっぱいの身体となってしまう。

 この七年間で一千日ぐらいは入院していただろうか。地獄の治療時期や現在に至るまでの医療体験を振り返る。

 移植治療のための無菌室内、げっそり痩せ、全身の毛が(まつ毛に至るまで)抜け落ち、放射線で傷んだ皮膚は黒ずみ、別人の風貌となった自分。そんな自分を、ガラスの向こうにいる当時三歳の娘は一瞬、父親と理解できないほどだった。誰だか分かった瞬間「パパァ、パパァ」。
自分の元へ行きたいと、ガラスの壁を叩く。そんな娘の顔が、涙でかすみ、見えなくなる。息子誕生の連絡を貰ったのも、移植治療中の無菌室内。診察に来た主治医(女医)がガラス越しに「おめでとう、同い年でよかったね」。病前O型だった血液が、移植で生まれたてのB型に変わった自分は、赤ん坊と同じように、デリケートな状態なので、同い年(赤ちゃん)だと言うのだ。

 その言葉に、今まで主治医の前ではこらえていた涙が一気にあふれ出す。その様子を見た主治医も同じように。

 今思えば、この時期が大きく看護師・医師を見る目が変わった時期だった。

 薬物性の糖尿病で行っていたインスリン自己注射も、自分でできなくなるほどのうつ状態になった時、夜通し話を聞いてくれて、精神科への受診から助けてくれた看護師。

 気管支炎、確定診断のため、肺の一部を採取する手術を受けた際、術後、肺からつながれたチューブに身動きとれず痛がる自分のために、当直の間中、付きっきりで対応してくれた看護師。「私の車にあるクッションなら丁度いいかな」。ベッドと背中の間へ挟み込むことで体勢が楽になるかと。

 「閉塞性細気管支炎」が二度と治らない病気で、生きていくにはいずれ、妻や兄の肺の一部を移植するしかないと説明を受けた面談室。「奥さん、旦那さんに肺あげられる?」の主治医の問いに「うん あげるよ」と即答し号泣した妻、主治医も涙。その場にいた自分も、かぶったニット帽を鼻まで下げるしかない。長く苦しい闘病生活で、精神的にも限界が近い自分に対し、病院スタッフが連携し、出産三日目で、歩くことすらままならない状態の妻を、何とか自分の元へ送り出してくれた産婦人科の先生と、受け入れてくれたスタッフなど。思い起こせば、数えきれないほど、温かい気持ちを感じる場面があった。多くの受診科を、繰り返しの入退院で、延べ一〇〇人近くの医師・看護師との交わりの中。そりゃ中には、こちらの意図が伝わらず、言い合いになったり、腹が立ったりすることもあったが、幾度もその、温かい気持ちに助けられた。私服に着替え、帰宅する姿を見かけると、普通の人にしか見えない。そんな普通の人が、病院の中では誰よりも頼れる大きな存在に変わる。今年三十九歳になる自分ですが、白血病をきっかけに、他の人より少し大きめの分岐から、多少ガタガタ道を歩くこととなった人生だが、最近ようやく「こんな人生もありかな」と思えるようになり、悩むこと自体に飽きてきたような気がする。身近な周りを見ただけでも、病後数年だけで、重度の肝臓病で夫婦間生体移植する予定の妻をもった兄(もしかすると三度、ドナーとなる可能性もある)。治療前、人生最後の煙草を一緒に吸った時以来、「あいつの弱い顔なんか見られるか」と言い、その時以来、一度も顔を合わすことの無いまま、事故死した親友。子供の頃からの病気で、人生のほとんどを闘病に費やし、三十五歳の若さで亡くなった従姉など、生きたくても生きられない者や、またその逆に、自ら命を絶つ人までさまざま。せめて、同い年の我が子と共に成人式を迎えるまでは、何とか生きていたい。この病気を患ったことで、妻の大切さと共に、病院スタッフへの感謝を忘れてはいけない。医療従事者として、もし自分がその立場なら、同じように精いっぱいの看護・治療を施すと思うし、人間として、当たり前のことと思う。しかし、その当たり前のことに感謝できる気持ちを持たせてくれた経験が、今の自分の、唯一の財産。よく言われる。「血液型変わると、性格変わる?」。こう答える。血液型が変わったからではなくて、変わるくらいの経験が、人を変えてくれたのだと。

 皆、ありがとう。