イベント・その他
健康・医療
新規ウィンドウでリンクします。

こんぺい糖とおさげ髪


加藤 政代(44歳)静岡県牧之原市・派遣事務員

 規則的なポンプ音とランプが点滅する装置。医師に呼ばれて入った脳外科のICUは、立ち働くスタッフ以外全てが無機質だった。

 紫色のうっ血点だらけの青白い顔をした五歳の娘は、管やコードに囲まれ、上半身裸でベッドに横たわっていた。

 我が身に起こっている現実なのにもかかわらず、私は妙に客観的に娘を眺めていた。

 その2時間半前、私は道路で必死に助けを呼んでいた。側溝で脱輪して傾いた車と道路脇の低い石垣の間に挟まれた娘のあすみは、ひと泣きの後意識が途絶えた。

 近所に駆け込んで一一九番への通報を頼み、道行く車に助けを求めた。

 数人の手を借りて娘を車の下から救出し、人工呼吸を始めた直後に救急車は到着した。通報から十二分が経過していた。救急隊員は車の中で心肺蘇生措置を試み続けたが、現場から十分のH総合病院に到着した時点では娘の心臓はまだ停止したままだった。

 (この子はもうダメだ・・・)独身時代総合病院で事務員をしていた私は、十分以上の心肺停止がどういう事態なのか良く解っていた。頭の中で最悪のシナリオが巡り始めた。

 主人が病院に到着したのは三十分後だった。

 すぐに主人だけが処置室へ呼ばれた。この時医師に、「心臓は僅かに動き始めたが、心肺停止の時間は二十五分以上。十分でも九九%助からない」と告げられたという。

 その後私も中へ呼ばれ、先生の話を聞いた。「子どもの生命力と新しい治療にかけてみようと思いますが、いかがですか?」問われても訳が解らない。「宜しくお願いします」と頭を下げるしかなかった。

 一九九七年。当時脳低温療法を行っている施設は全国でも極僅かだったそうだ。この病院でも初挑戦で、しかも幼児。資料を片手に手探り状態だったと後で知った。

 一時間以上経過し、五時頃ようやく主人と二人ICUへ案内された。

 「体温を三二℃に下げて三日間保ちます。冬眠状態にして脳を休め、その後徐々に体温を戻します。この三日間が山でしょう」

 立春から三週間。窓の外の晴れた空は薄茜色なのに、室内は全てがモノクロに見えた。

 山だと言われた三日間、素人目には何の変化も見られなかった。ICUでの面会は一人十分。一日はあまりに長く、私は工作を始めた。娘にねだられて買った和紙の内裏雛のキット。本当は一緒に作るはずだった。

 これが最後の雛祭りになるのかもーー祈るためではなく、覚悟のための雛飾りだった。

 三月二日。面会に行った私は小さなお雛様を枕元の棚に飾った。

 看護師さんが娘の髪を梳かしていた。頭の天辺で丸めながら「凄く長い髪ですね。」と言った。娘の髪は腰近くまであった。「秋には七五三で結うつもりだったんです。」過去形で答えながら、(頭も洗えないし、切った方がいいのかな・・・)と考えていた。

 三月三日、ハサミを用意して面会に行くと、前日までとは違う光景が目に入った。

 お雛様の横には色とりどりの小さなこんぺい糖がお供えしてあった。娘の長い髪は綺麗に三つ編みにされ、先端は見覚えの無い赤い苺のゴムで結わえてあった。

 動物柄のタオルを掛けて眠るあすみの顔が穏やかに見えた。

 先生が来て「カワイイお雛様だねー。ひなまつりの歌、知ってるかい?」と笑った。

 看護師さんは、「あすみちゃーん、早く起きようね。食いしん坊のH先生にこんぺい糖食べられちゃうぞ」と言って頬をつついた。

 皆が意識の無いあすみに笑顔で話しかけている事に初めて気づいた私だった。

 (この人達はあすみが目覚める事を願って待っている。私が信じなくてどうするの?)

 事故の日以後忘れていた涙がボロボロこぼれた。突然泣きだした私の背中を、看護師さんは黙ってさすってくれた。

 翌日から私は笑顔で面会に行けるようになった。眠るあすみの傍らで絵本を読み、歌を唄った。既に復温が始まっており、日に日にあすみの顔色は鮮やかになっていった。

 三月九日、あすみの意識は戻った。

 全身麻痺状態からの苦しいリハビリが始まった。あの日以来こんぺい糖は私達親子の元気の素になった。訓練の前には、こんぺい糖を1粒あげた。つらい時、淋しい時、チャレンジする時、こんぺい糖を口に放り込めば、どんな事も笑顔で頑張れた。

 あれから十五年。あすみは二十歳になった。身体障害一級だが、家を離れ、車イスで県外の大学に通っている。

 来年成人式を迎えるあすみのために、私はこんぺい糖のトンボ玉で帯飾りを作った。

 おさげ髪に苺の髪飾り、笑顔の晴れ着姿の写真を年賀状にして、お世話になった人達に送りたいと思っている。