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進むべき道


藤澤 恵子(60歳)埼玉県蕨市・主婦

 重度の知的障害を持つ次女も今年で24歳になりました。転勤族の夫とともに、家族で医療と行政と地域を繋いで生きてきた24年間でした。

 次女の様子が「おかしい」と思い始めたのが生後すぐ、というのは母親の直感というものでしょうか。昼夜の区別なく泣いては起きる、突然火がついたように泣き始める等というのは赤ちゃんの特権でしょうが、その様子が少し違うとの心配はいつもつきまとっていました。出産した病院で専門病院を紹介されたのが1歳すぎの事。秋田県小児療育センターで即座に「重度の知的障害」と診断された時は、おかしい、変だと思っては、いや、大丈夫と自分で打ち消すというような日々が続いていたので、かえって気持ちが落ち着いたような気がしたものです。これで私の進むべき道が決まったというような。暗い闇の中にやっと道が見えたというような。それでも夫が帰宅するまでの間、次女の可愛らしい後ろ姿を見ながらソファに横になったまま立てずにいたものです。

 その「決められた進むべき道」はとても大変な道でした。睡眠障害のため3時間ごとに泣いて起きてはそり返る次女を、その度に車で連れ出します。不思議と車に乗せてしばらくすると泣きやむからです。夜中、雪の降る中を当てもなく車を走らせる時間はとても辛いものでした。朝方起きる事が出来ず次女と寝入っているため、長女は自分で朝食をつくり食べて学校に行きます。学校であった辛いことも私にはなかなか話す時間が無かったのだろうと思います。学校から帰ってからは、私の代わりに添い寝をしてくれました。仕事で疲れているだろう夫も、夜中に出ていく私と次女の姿を見送り、帰宅時には起きて迎えてくれました。後に神経科のドクターから、左の前頭葉に傷があり、それは生まれてから脳症をおこしたのが原因ではないかとお聞きしました。そう言われてみると確かに6カ月位からかと、心当たりがあります。尋常でない泣き方に救急で診察を受けたこともあります。可愛い笑顔はその時期を境に表情を失っていったようにも思います。それでも音楽を聴くとニコリとする次女にむかって、夫は得意のギターで音を聞かせていたものです。

 「頭の一か所に傷がある」だけで肉体的には何の異常もない。でもその「頭の一か所に傷がある」ことが、体の様々な場所に異常をもたらすのです。傷をつけても触ってしまうのでなかなか治らない。とびひになるとかきむしって包帯をまいてもすぐ取ってしまう。足自体は何の問題もないのに、歩き方に問題がでて靴ずれがひどくなる。そのために今まで多分野のドクターのお世話になりました。

 最初に診断をして下さったドクターは、転地の際に3通の紹介状を、病院・行政・療育関係と各々にわかりやすいように内容を分けて書いて下さいました。頑張りなさいという言葉を添えて。

 次の地のドクターは、発作が怖くて出来ずにいた予防接種を、間隔を計算しながら全て受けさせて下さいました。

 入院と発作を繰り返しながら転地した四国では、発作を見ながらオロオロする私に「うろたえるんじゃない、発作じゃ死なない」と冷静に対処して下さったドクターがいます。その夜遅く自宅まで電話を下さり、やっぱり冷静に「変わりないか?」と聞いて下さった声を今も覚えています。その後発作がある度に心の中で「うろたえるな、うろたえるな」と自分で言い聞かせてきました。あの時のあの一言を支えに、その後色々なつらい事が起きても乗り越えられてきたように思います。

 裸足で家から出て行ってしまう次女を追いかけた幼い弟。その次女を両手で抱きとめてくれた地域の人々。様々なサービスを提供して下さる行政。皮膚科や歯科のドクター、通園施設や学校の先生方。家族やたくさんの方々に支えられて暮らし、今は再び家族5人で埼玉に住んでいます。

 お世話になった方々一人一人にお礼を言ってまわることはできないけれど、せめて、自分のできる範囲で何かできないかと、次女が受診した病院の一つでボランティアとして参加させていただいています。ボランティアや介護というのはする方、される方ではなく人と人とのつながりの中で何かが生まれていくものだと感じる時間です。

 夫と私は今60歳。あと何年生きる事ができるだろう、あと何年次女と一緒に暮らせるのだろう。不安はつきることはありません。でも食事や排泄も一人で出来ない、何かを伝える言葉も持たない娘のために、これからも止まることは出来ない、進むしかありません。私の歩むべき道は、自分で望んだものとは随分違うものだったけれど、あの四国のドクターに言われた言葉のように、うろたえることなく背筋をぴんと伸ばして、「私の進むべき道」をしっかり歩みたいと思っています。