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人のために生きる


青木 雄作(30歳)東京都昭島市・会社員

 私が仕事中の事故で膝の骨の複雑骨折で入院したのは28歳の時だ。私の職業は大工で、事故の日は雨が降っていて、私は建設中の家の2階の窓を取り付けている際に、足を滑らせて転落し、右膝を石のタイルに強く打ち、複雑骨折してしまったのだ。私は集中力を欠いていたのだと思う。

 28歳、大工という仕事に疑問を抱いていた、このまま大工の仕事を続けていていいのか、危険だし、その割に収入は低い、迷いを抱えたまま仕事をしていた。

 40年後か50年後にいずれは壊される家を建て続けることに、何の意味や価値があるのか、と。病院のベッドで過ごしている時間に私の担当医のK先生は何度も何度も私に話しかけてくれた。

 K先生は、まだ青年の風貌を残している45歳の男性で未婚で細身、身長は185㎝くらい、眼鏡の奥の澄んだ瞳、薄い唇、医者というよりも図書館司書のような雰囲気を持つ身体の大きな優しい男性だった。私は大工という職業柄か体育会系の善き意味で粗雑で荒い力自慢の男たちに毎日囲まれていたので、K先生との日々は新鮮であった。

 医者の人格は医者の医療の技術、知識以上に患者の容態に強く影響するようで、私はK先生の言葉を信じ、リハビリをし、私の足の膝の恢復は早かった。私はこれまでの人生で医者という存在に深く関わったことはなかったので、K先生との会話は私の入院生活での一つの楽しみだった。そして、K先生との会話で今でも私の心に鮮烈に刻まれた会話がある。

 誰もが物悲しい、10月の午後、私は2週間の入院を終えて退院の日を明日に控え、K先生と話をした。私はベッドの背を起こして、座り、K先生はベッドの傍らの椅子に座った。窓からは10月の赤い夕日が差し込んでいた。

「明日で退院です、ありがとうございました」私は言った。
「医者の力なんて微々たるものなんだ、病気を治すことはできるけど、人間を治すことはできない、青木君の『恢復したい』という気持ちの方が大切だったんだ、だから、僕に礼なんて言わなくていいよ」K先生は言った。

「K先生は、なぜ、医者を目指されたんですか?」私は訊いた。今にして思えばなんと失礼な質問であったかと思う。K先生は、どの患者のどんな質問にも丁寧に正面から答える医者だった。K先生は眼鏡を人差し指で上げて答えた。

「『なぜ医者を目指したか?』ですか、私は、お金よりも、名誉よりも人間の心を満たすものがあるということを知ったからです」

「・・・それは何ですか?」私は訊いた。

「それは他の人間のために生きているという実感です、人のために生きるという実感以上に人間に幸福感を与える感情は存在しないんです、そして僕にとって人のために生きるということは、そのまま医学の道に進むということでした。苦しんでいる人たちのために働きたい、と思ったんです。だから大学の経済学部を22歳の時に卒業して、会社員として働き学士編入という制度で27歳の時に、また医学部に入学したんです」

「人のために生きるという実感・・・」私はK先生の言葉を復唱した。K先生は続けた。

「結局のところ死の前に医学は全敗です。でも、患者は治癒を求め、私たちはそれを与える、そして与えるという行為にこそ、人は喜びの経験をするのだと痛感したんです、ここで大切なのは、与えるという行為は犠牲ではないということです」K先生は言った。

「犠牲ではない?」私は訊いた。

「はい、人に与えるということは犠牲ではなくて、自分自身を満たす行為なんです、仕事は人生の大多数の時間を捧げる事業です、そして仕事とは犠牲ではなくて人に与えるということなんです、そして私たちは与えることによって初めて満たされる。そして注射器や、救急車、担架などの医療器具の総ては多くの人々の努力の上で成立し、与えられているというつながりを考えると、仕事に貴賎はないということに気がつきます。そして人生に意味や価値はない、もしあるとするのならば、自分にできることを最大限やり、人のために生きて、働く事の中にしかないんです」そのK先生の言葉は暗闇の中でそっと松明を出される感覚に似て私の前を照らし出してくれた。

「ありがとうございました」と、私は言いK先生と握手をして別れた。私は大工として人のために働こうという気持ちを胸に抱き病院を後にした。

 今、私は大工として働いているが、K先生は私の身体の怪我を治してくれただけでなく、私の心の欠けた部分も埋めてくれた。K先生の言葉、それは道を見失いかけた時の指標のようなものとして、私の心に存在し続けている。私は今日も家を建て、他の人間のために働きたいと思う。「人生に意味や価値はない、もしあるとするのならば、人のために生きて働くことの中にしかないんだ」と言った、K先生の言葉を思い出しながら。