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光の軌跡


清水 紘子(34歳)兵庫県神戸市・無職

 私が最後に青空を見たのは、阪神淡路大震災後の事だった。あちこちで瓦礫(がれき)の撤去作業の音が響く中、ふと見上げた空はとてもきれいに晴れ渡っていた。その青空は、今も私の記憶の中に、鮮明に残っている。

 生まれつき弱視だった私は、7歳の時に右眼を、17歳の時に左眼を、いずれも網膜剥離で失明した。母が私の眼の異常に気付いたのは、生後3ヶ月の時だった。何を見せても、反応を示さなかったそうだ。病院で診ていただいたところ、眼底に異常があり、見えるようになるかどうか分からないという事だった。その時から、私と家族は文字通り手探りで視覚障害と向き合う日々が始まった。

 20年余り、私の眼を診てくださったお医者様との出会いは、精密検査を受けるために、紹介された病院での事だった。検査の結果、眼底に異常があるものの、網膜が生きていることが分かった。

「決して良い視力とは言えませんが、必ず両眼見えるようになりますよ。」

 先生はこの言葉と共に、私の眼だけでなく、それまで絶望の日々を送っていた家族の心にも、希望の光をくださったのである。

 こうして私は、奇跡的に見える世界を経験する事ができた。しかし、眼の状態はいつも不安定で、これまで手術や治療のため何度も入院した。

 7歳で失明した右眼を摘出したのは、13歳の夏だった。入院中、色々な思い出のある右眼が、自分から離れていく寂しさや空虚さなど、複雑な気持ちがあった。そんな時、病院に来た父が、同じ病院内に片足の無い人が車椅子に乗っていた事を、何気なく話してくれた。病院には、色々な苦しみを抱えて入院や通院している人がたくさんいる。辛い思いをしているのは、自分だけではないという事に気付いた。そして、摘出した右眼にいつまでも固執する事は、これから自分が歩んでいかなければならない道を、自分で閉ざしてしまう事ではないかと考えた。

 私にとって、残された左眼はとても大切だった。何とかこのまま見えていて欲しいと願う一方、いつか見えなくなってしまうのではないかという不安が、いつも心にあった。

 阪神淡路大震災から2ヶ月半余りが過ぎたある日の事だった。その日は、全壊した自宅の解体撤去作業の日だった。私が17年間住んだ家が、完全に取り壊されるのを見届けた直後、左眼に異変を感じ、それからあっという間に見えなくなってしまった。家と同じように、左眼に映る物が崩れ落ちていくようだった。眼を開けても、光が入ってこない恐怖をその時初めて知った。全身の血の気が引き、震えと涙がとまらなかった。

 左眼の状態を家族に告げた時、一瞬皆言葉を失った。しかし次の瞬間、

「よし、これからどうするかを考えていこう。」
そう言って、前向きな雰囲気に変わっていた。見えなくなったという、自分の力ではどうする事もできない現実をしっかりと受け止め、今の自分にできる事は何か、それを考える力を、家族は与えてくれたように思う。

 お医者様が最善を尽くしてくださり、手術後再び光を感じ、うっすらと物の形が見えるまでに回復した。しかし、そのわずかな視力も、やがて霧の中に消えていくように徐々に見えなくなっていった。

 診察の時、いつもお医者様は残された視力を大切にする事をおっしゃった。それは右眼を失明し、左眼だけの視力になった時も、左眼の手術後、わずかな光を残すのみとなった時も同じだった。
「たとえわずかな光でも、明るさを感じるのと感じないのでは全く違いますから、この光を大切にしていきましょうね。」
それは、ともすれば消えてしまいそうなわずかな光を、両手でそっと包み込み、守ってくださっているようだった。両眼が全く見えなくなった今でも、先生のその温かさを思うと、胸が一杯になる。

 現在、私は幼い頃から続けているピアノ演奏を交えて、色々な所で講演会を行っている。6年前から、盲導犬のピアザも一緒だ。ピアノ演奏と自分が経験し、感じた事を話す事で、少しでも役に立てればと思っている。

 果てしなく続く濃霧の中に消えていった私の眼の光、その軌跡をたどってみると、いつも私の障害を全面的に受け入れ、共に歩んでくれている家族を始め、多くの人の温かい支えがあった。感謝の気持ちをいつまでも忘れずに歩んでいきたい。新たな困難に直面した時、悩み、迷いながらも「今の自分にできる事は何か」を考えられる心をもち続けたい。そしていつか振り返った時、これまで悩んだ時間も流した涙も決して無駄ではなかった、そう思える生き方ができればと考えている。