イベント・その他
健康・医療
新規ウィンドウでリンクします。

ぼくと耳


藤井 雄太(15歳)東京都目黒区・中学3年

 「髪なんか切らなきゃよかった。」

 塾の友達から、「耳悪いの?両耳に補聴器を付けてるの。」何人かから聞かれるとつい考える。そのたびに僕は「うん、ちょっと。でも大丈夫。」「右耳だけ付けてる。でも大丈夫。」小さいころから、いつも同じ返事だ。

 僕の左耳はうまれつき小さくて、耳の穴もない。だから、音は骨を通じてしか聞こえない。たぶん、普通の人が手で耳をふさいだ時に聞こえる位なのだろう。悪いことに、ちゃんとある右耳も、聞こえはよくなかった。だから僕はすでに一才の時には右耳に補聴器を付けていた。赤ちゃんにしては珍しく付けるのを嫌がらなかったが、幼稚園の時一度だけ、母に、「僕の耳、いつ生えてくるの?生えてくるよね。」と聞いたという。

 そんな僕だから、小さなころから病院通いは多かった。覚えているだけでも、五才の時アメリカで手術、小学四年と五年の時もそれぞれ一ヵ月ほど入院して手術した。

 最初の手術の時は小さかったから、あまり記憶がない。覚えているのは、生まれて初めて車椅子に乗って手術室に運ばれたこと、そして、麻酔から覚めた時、黄色と青の毛糸の帽子を被ったブルーグレーの瞳の医者がニコニコして僕に話しかけてきたことだ。それから、黒人ナースが、術後微熱が出た僕にアイスと缶詰のチキンクリームスープを勧めてくれた。

 ニット帽の似合う医者は、手術は大成功だと言った。音の伝導を良くするため、馬のあぶみの形をした金具を僕の右耳に埋め込んだと説明してくれたそうだ。医学用語を使っての英語のやりとりは難しく、両親は肝心な所は電話日本語通訳を介して僕の病状を理解していた。こうして僕は補聴器をつけないで生活するようになった。実際、英語は子音が重なっているので、難聴の僕にも聞きやすかった。水泳や野球が大好きな僕は補聴器を付けないアメリカの生活を楽しんだ。

 二年後、日本に戻ってしばらくすると、定期検査のたびに僕の聴力は少しずつ落ちていった。成長にともなって、音を伝わりやすくするために入れた金具と骨が離れてしまったらしい。そして僕は再び右耳に補聴器をつける生活に戻った。スポーツでよく汗を掻く僕は、補聴器の故障で悩まされることも多かった。

 その後も僕は東京の病院の耳鼻科と栃木の病院の形成外科に定期的に親に連れられて通っていたが、小学四年生の時、形成外科の先生に、手術を勧められた。今度は左耳の耳介と外耳道と鼓膜を作る手術だという。手術は一年かけて、二回に分けて行う。一回目は、骨を胸の肋軟骨から切り取って、耳の形に作り、そのまま肋骨のところに半年間埋め込んでおく手術と外耳道と鼓膜を作る手術だった。二つの大学病院の耳鼻科と形成外科が共同で行う大手術だ。手術を決める前、先生は僕に柔道とフェンシング以外のスポーツならすぐにできるようになるし、聞こえが良くなる可能性も高いなどと、手術を受けたほうがいいということを丁寧に説明してくれた。僕は本当に手術を受けたくなかったけれど、受けなければならないと覚悟した。手術後は砂枕で頭を固定して寝かされていた。胸の骨を切ったので、痛くて起き上がるのも寝るのも何もかもが大変だった。本当につらかった。

 二回目の手術はすぐにやってきた。今回は前回の経験があった。僕は痛いのがなにより嫌いだったから、麻酔は注射でなく、まず飲み薬で眠らせてくださいと頼んだ。ところがなんということだ。僕は手術の途中に目を覚ましてしまったのだ。それは、医者が僕の肋軟骨を胸から取り出し、耳に付け、僕の頭皮を切り取ってかぶせる手術を終えた直後だったと思う。もし、あと一瞬でも早く麻酔から覚めていたらどうなっていたのだろうと何度考えても恐ろしくなる。その時は肝を冷やした僕だが、今回は骨を切っていないから痛みも少なく回復は早かった。

 こんな大変は思いをしたから、今、聴力は良くなったかというとそうではない。せっかくつくった外耳道を僕の体は傷だと認識したらしい。皮膚は一生懸命傷を直そうと穴を小さくしていき、今ではすっかりふさがってしまった。期待した聴力も第二次成長のために骨がずれてしまい、思ったほど効果は出なかった。医者からは成長がとまったら、改めて再手術を考えていこうと言われている。

 こうして、現在まで多くの人が僕の耳のために関わってくれた。人生をやり直したいと思うくらい嫌だったこともある耳だけど、僕は今、耳のハンディをそんなに気にしていない。この耳を特別だとは思っていない。