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<一般の部> 入選
「起・承」そして「転」


川又 まさ子(茨城・無職)

「気がついた?誰だかわかる?」

 聞き覚えのある声がした。視界がはっきりせずにぼやけている。ここはどこ?一体何が起きたんだろう?

 「10時間の大手術だったんだよ。意識が戻ってああ良かったあ。倒れたって聞いた時はびっくりしたけど、ドクターヘリで搬送されたから間に合ったんだって。美千代ちゃんと同じ急性大動脈解離だったわ。やっぱり姉妹だね。もう無理はできないからね。」

 枕元で、母と末の娘、すぐ下の妹の声がした。意識がぼうっとしている上に眼鏡も無いので、はっきり見えない。ここが集中治療室だとわかったのは、しばらくしてから。

 喉には太い管が挿入されていて喋れない。酸素吸入器が口を覆っている。後から聞けば何日もうつらうつら意識が戻らずにいた。鼻の中にも首にもチューブ。腹部からもチューブが何本も出ていて腕には点滴。自分の意思で動かせるのは左手だけ。右手はどうやら縛ってあるらしい。

 看護師さんたちの声。どこかから院内工事の音。救急車の音。隣のベッドの患者さんの苦しそうな声。心電図の機械音。インターフォンでの看護師さんとのやりとり……。

 喉に異物があたってすごく痛い。水!水が飲みたい!以前、姉が心臓バイパス手術をした時のあの、水が欲しくても飲めない哀れな顔を思い出す。私も同じ顔をしているに違いない。看護師さんが喉にチューブを入れて痰(たん)を取ってくれるが、まるで地獄。身体がくの字に折れ曲がってのざえてしまう。喉の奥の粘膜がカラカラに乾いているので、やわらかいビニールチューブが触れても、まるで焼き火箸がささったように痛い。

 ここは産婦人科と違って男の看護師さんもいることに気付く。身体を拭いてくれる。歯を磨いてくれる。床ずれを防ぐ為に体の向きを変えてくれる。体を洗浄して紙おむつを交換してくれる。熱を測り、アイスノンを身体の下に入れてくれる。ひらがな五十音表を使って気持ちを読んでくれる。腰痛を訴えると湿布を貼ってくれる。石のお地蔵さんのような私を、その都度、名前を呼びながら接してくれる。本当に手厚い介護で有り難い。

 毎朝、看護師さんたちの朝礼が聞こえる。先輩看護師さんが研修生と打ち合わせしている声が、きびきびしていてハリがあって頼もしい。

 日に日に、主治医の先生の声やそれぞれの看護師さんの声が聞きわけられるようになってきた。毎朝、そろそろ回診の時間になると遠くのほうで先生が話していても聞き取れるようになってきている。血圧測定時や点滴交換時に、聞き覚えのある看護師さんだとホッとする。

 「川又さーん。歯を磨きますよ。いいですか?」やったあ!一日に朝晩二度、歯を磨いてもらえる。カラカラに乾ききった喉には歯磨きの僅かばかりの濯ぎ水も潤いだった。

 喉から管が外れる―抜管―あの時の爽快感と主治医の先生の優しい声は今でも忘れられない。思わず先生の手を強く握りしめてかすれてしゃがれた声にならない音を出してありがとうございましたと言った。

 体を起こせるようになってから、ドクターヘリに同乗して下さったナースの方も見舞いに来て下さった。

 「川又さん、僕が川又さんの歯磨きを担当した時、口の中にジェルを塗ったら、ものすごく嫌そうな顔して、僕は指を食いちぎられるかと思ったんですよ。だから『今から僕の指を入れますからね!食べないで下さいよーっ!』って言ったんですよ。聞こえてましたか?」と、体格のがっしりした別の看護師さんが笑いながら話してくれた。この看護師さんが、今でも忘れられない言葉を贈ってくれた。

 「川又さんの病気は、病院に搬送途中で命を落とす人もいたり、手術もリスクが高かったんですよ。人工血管にはなったけれどもこうして助けられた命があるってことは、まだまだやる仕事があるってことです。これからは今までと同じ様なことは無理でしょうが、今までの人生が『起・承』とするならばこれからの『転』をいかに進むかに、人の価値が見えるんでしょうね。あせらずに頑張って下さい。これからですから。」集中治療室からICU室に移される時にかけてくれた。生きる勇気と課題をいただいた。

 お世話になった方たちの名前もわからず顔もはっきり見えなかった。でも声を聞けばわかるような気がする。

 これからの「転」を見つけながら感謝しながら生きて行く事が出来て気持ちが落ち着いている。