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<一般の部> 入選
「この夏、外科医に恋をした」


関本 浩子(神奈川・公務員)

 はじめに私がY医師に興味を持ったきっかけは、夫が主治医である外科医のY医師のことを、「いい医者だ」と言っていたからだった。ふだんはあまり人をほめない夫が、「いい医者だ」と言うからには、「いったいどんなお医者さんなのだろうか」と思い、次の夫の診察日には、私も夫に付き添って、Y医師に会いに行くことにした。もちろん妻としては、胆のう摘出と左そけいヘルニアの手術を同時に受けることになっている夫の病状についても、Y医師に色々聞いてみたいことがあった。

 夫の診察日、いよいよY医師に会える。私は少し緊張して診察室に入った。しかし、Y医師に対する私の第一印象は、それほどよいものではなかった。なぜなら、思っていたより頼りなさそうな人に見えたからである。年齢は30代半ばくらいか。体つきは細身で、メガネをかけていて、およそ権威や威厳とは無縁の人に思われた。話し言葉には東北弁らしいなまりが少し残っている。そのせいで、よく言えば実直で素朴な感じ、悪く言えば田舎者という感じがした。

 しかし、夫の病状や手術の方法、その予後などについて、Y医師からのていねいな説明をうけているうちに、私のY医師へのイメージは、だんだんいいものに変化していった。Y医師は、ひと通りの説明が終わるごとに、「何かわからないことはありますか」と聞いてくれた。そして、私が発するどんな小さな質問にも、きちんと答えてくれた。次第に私の中にあった不安は小さくなり、そのかわりにY医師への信頼度が高まっていったのである。

 Y医師の説明によれば、腹腔鏡で行う胆のう摘出と左そけいヘルニアの両方の手術にかかる時間は約4時間程度。入院日数もたぶん4日間で大丈夫とのことだった。そして手術の前日の夜には、「今夜はゆっくり休んで下さい」と、夫の病室まで声をかけにきてくれた。

 次の日、手術はY医師の予測どおり、4時間で終わり、術後の説明のために、私はY医師に呼ばれ、診察室に入った。そこで、今しがた夫の体内から取りだされたばかりの胆のうを見た。それは10センチほどの黄色い物体で、2本のピンセットでY医師が中を裂くと、黒いカカオ豆のような胆石が、10コ以上中から出てきた。あとで麻酔から醒めた夫に見せてあげようと、私は4~5枚写真を撮ったが、Y医師は、「この石はきれいにして、あとで差し上げます」と言った。それと、「胆石は人によって、緑だったり黄色だったり、だんなさまのように黒だったりします」との説明もしてくれた。夫の胆石が黒かったのは、「腹黒いせい?」と聞いてみたかったが、それはぐっとこらえた。

 抜糸の日、「ありがとうございました」と言う私たちに、Y医師も言った。「ありがとうございました」と。一瞬、意外に感じた。なぜなら、医師が患者やその家族に「ありがとうございました」と言う理由はないからである。しかし、Y医師は確かに言ったのだ。「ありがとうございました」と。

 その理由を聞くチャンスはもうない。ただ察するだけ。命(生命力)への感謝? 手術が成功したことへの感謝? それとも、一緒に病気と闘った私たちへのねぎらい? もしくは、口べたで、たまたま私たちが言った「ありがとうございました」をおうむ返しで言っただけなのかもしれない。しかし、理由はなんであれ、元気になっていく患者に「ありがとう」と言う医師が、すごく素敵に見えた。そして、「ありがとう」って、もしかして、何かをしてもらった時に言うだけの言葉ではない使い道があるのかもしれないと思った。「お大事に」という言葉を言ってくれる医師は、たくさんいる。しかし、元気になっていく患者に、「ありがとう」と言ってくれる医師に私が出会ったのは、Y医師がはじめてだった。

 退院の準備をしている夫に、私が言った。「Y医師、さっき私たちに『ありがとう』って言ったよね」。しかし、夫はその言葉を聞いていなかったようで、「そんなこと言ってたかなあ」と言った。

 それで私が、「確かに言っていたよ。『ありがとう』なんて患者に言える医師には、めったに出会えない。Y医師って、本当に素敵だと思う」と何度も言うと、夫が一瞬ニコッとして言った。「あなたはこの夏、外科医に恋をしましたね」と。

 「エッ、恋?」。 ちょっと私は驚いたが、元気になっていく患者に「ありがとう」と言ってくれるY医師のような医者になら、恋をしてもいいなと思った。

 でも、もう私がY医師に会うことはない。しかし、素敵な外科医に出会えた思い出は、Y医師が手渡してくれた夫の胆石が入ったビンと共に、一生私の心に残るだろう。