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<一般の部> 入選
「優しさに触れて」


上田 純子(大阪・主婦)

 目を覚ますと、私は暗く、本来は二人部屋である広い病室にぽつんと置かれたベッドの上にいた。ベッドのそばに置かれた点滴の滴がポタポタと落ち、その傍らで母は静かに泣いていた。涙を目にためながら「死たかったの?」と聞かれて、私は何も答えられなかった。ただ、人間は追い詰められると自分でも理解できない行動をとるのだな、と思っていた。しばらくして病室の扉が開き、私を助けてくれた小児科の女性の医師が、「しばらくここにいていいよ。」と優しく微笑んでいた。私はそこが自分に与えられたシェルターのように感じた。

 今思えば、迷惑な患者であったと思う。それに、必死に病気と闘っている人に対して申し訳ないとも思う。けれども当時は毎日を乗り越えることが精一杯で、周囲に気を配ることができなくなっていた。

 中学一年生の二学期から私は体育の授業の後、貧血で倒れるようになり、中学二年生になる頃には、朝、ベッドから起きあがることができなくなった。いくつもの診療所や病院をまわり、やっと「起立性調節障害」と診断された時には半年が過ぎていた。しかし当時、成長期にかかるその病名は世間にあまり知られておらず、中学校に診断書を提出しても、理解されなかった。学校に行きたくても行けない、頑張っても報われない苦しさが、積もりに積もって生きる意欲を失った時、私は処方されていた血圧の薬を無心にボリボリと食べていた。

 そのようなことで運ばれた患者に対して、医師や看護師はどう思うだろうかと不安だった。けれども誰一人、私に対して怪訝(けげん)な眼差しを向ける人はいなかった。私の担当医となった女性の医師は、毎日私の病室に笑顔で入ってくると、色んな話をしてくれた。娘さんの高校入試の話、家族との時間の話、その時間を楽しみに待っているまだ幼い息子さんの話。私の病院での一日は、どんなに夜遅くても、私の病室に来て、ゆっくり「大丈夫よ。」と言う、その先生の言葉で終わった。私にとっては競争社会で勝ち抜き、医師という職業に就いている人に、こんな私を受け入れてもらえるなんて、信じられないことだった。けれども先生は、人生に勝ち負けはなく、自分という人間であることに幸せを感じられるかが大切だと私に話してくれた。

 「『自分が家に帰ろう。』と思ったら外泊許可を取って、家と病室の行き来をするような生活を送ればいい。あなたが『もう大丈夫だ。』と思うようになったら、退院したらいいのよ。」と言う先生の言葉に私は驚いた。そんな勝手なことをして良いものかと思ったが、その言葉が嬉しかった。

 窓の外は二月の冷たい雪交じりの風が強く吹いていた。病室から出て現実の生活に戻ることが私にとってはその嵐の中に無防備で出て行くようなものだった。しかし、毎日の先生とのやりとりの中で、徐々に私はここで甘えていてはいけない、と思えるようになった。入院して一週間後、私は外泊許可を一度とって自宅に帰り、その後まもなく退院した。

 退院してからも、生活がうまくいくことはなかった。貧血状態でベッドの上で苦しむか、自分の居場所のなくなった教室で、耐える日々だった。それでも、自分に負けたくないと歯をくいしばることができたのは、今の自分を受け入れて、今できることを頑張りたいという思いからだった。

 私が高校生になってからも、先生は検査室の入り口から小児科の診察室に私を通してくれた。その度に先生は私のカルテに高校受験合格、英語弁論大会入賞、とその後の私の様子を書き込んでいた。アメリカ留学の報告をした私に、「私も英語をもっと勉強したかったなぁ。」と言った先生と一緒に笑った。中学三年間はほとんど登校することができなかったが、高校生になると体調も落ち着き、精勤賞を受けて卒業した。大学では英語を専攻したが、色々な理由から学校に行くことができない生徒の支えになりたいと思い、大学院では心理学の分野で研究し、英語の教師になった。

 中学生の時、先生と出会い、消えかけていた私の生きる意欲に火をつけてもらえなければ、私は前に進むことができなかっただろう。人は人の優しさに触れて自分に強く、人に優しい人間になれることを私は先生から教わった。

 二〇一一年の二月、私は同じ病院で娘を出産した。先生とは今も連絡を取り合い、子育てのアドバイスをもらっている。子どもさん達が成人されて、先生は英会話の勉強を始められた。私も子育てをしながら、沢山の笑顔に包まれて充実した日々を送っている。