0 第31回「心に残る医療」私の体験記コンクール入選作品集|「心に残る医療」体験記コンクール|国民のみなさまへ|社団法人日本医師会

イベント・その他
健康・医療
新規ウィンドウでリンクします。

<一般の部> 入選
「忘れかけていたこと~Tくんとの出会いを通して」


坂東 慎也(大阪)

 毎日、健康な身体で過ごしていることを当然のように思い、生きるということを深く考えることはなかった。そんな僕に、普段考えもしなかった大切なことを教えてくれたのはまだ幼い少年との出会いであった。

 学生実習で訪れた小児科病棟。当時八歳の少年は、急性リンパ性白血病の発病から約一年が経過していた。今回二度目となる入院は幹細胞の移植目的であった。造血細胞が未分化のまま増殖をするため免疫力が低下し、決して予後の良いものともいえない。抗がん剤の副作用からなる脱毛が薬の強さを物語る。抗がん剤が開始されて数日後のこと、この少年(以後Tくん)にもその副作用が現れた。Tくんは、事前に主治医から知らされており、いつか自分にも現れると分かっていた脱毛を笑いながら母親に知らせたという。それから一ヶ月後、僕はTくんと出会った。Tくんは、看護師のたまごである学生が受け持つというのを楽しみにしているということを事前に病棟師長から知らされ、身の引き締まる思いであった。

 実習初日、幹細胞採取のために四時間もかけて行われていた採血中に、ベッド上のTくんと対面することとなった。左右の腕には採集されていく血液と、身体に戻されていく血液の流れるラインが挿入されていた。呆然と無言のまま立ち尽くす僕に対し、ふとTくんは「お兄ちゃん、この血が流れているところ触ってみて」とラインを差し出してきた。「どお、僕の血すごく温かいでしょ。生きている証しだね」と笑顔で話しかけてきた。ラインを通してわずかではあったが、流れている血液は温かかった。言われたことに驚き「ほんとだね」と言うのがやっとで、Tくんの言葉は重く僕の頭の中から離れることはなかった。その日から僕はできるだけ多くの時間をTくんの傍らで過ごした。小学三年生のTくんは本来なら、学校でたくさんの友達に囲まれ勉学にも盛んな頃であったが、入院中のTくんはほとんど病室から出られず、面会も制限されている中、治療に明け暮れる毎日であった。しかし僕が病室を訪れると、いつも元気な笑顔で病気のことを全く感じさせないのであった。幹細胞採取から四日目。十分な幹細胞が採取されたことと、体調の安定から移植に向けての準備が着々と進められていた。その一歩としてクリーンルームへ移動することとなった。今よりも厳重な無菌操作と二重扉の部屋に戸惑う母親。本来であれば学生の入室は禁止されているのだが、家族のたっての希望のもと、一時間という制約で師長の許可が出た。クリーンルームへの入室には入念な清潔動作が必要であったが、扉をくぐるといつもと変わりない笑顔と声が僕を迎えてくれた。しかしそんな笑顔をあざ笑うかのように病魔は、音もなく忍び寄っていった。

 実習最終日、クリーンルームではいつもと変わらない時間が流れて行った。そんな中、Tくんの口数が次第に少なくなり、やがて無言になった。許可が出ている一時間が過ぎ、部屋を後にした。退室時、二重扉が閉まり見えなくなるまでお互いに手を振っていた。扉は閉まり廊下の前はいつもと同じ病棟、しかし、別世界のような錯覚を感じていた。その日の夕方、Tくんの熱が下がらないとの知らせを受けた。副作用からのものであろうとのことであったが、クリーンルームの前は医師や看護師たちが騒然としていた。その騒ぎも落ち着きを取り戻した頃、偶然通りかかった洗面所の前に母親の姿があった。「Tくんの具合はどうですか?」と尋ねると「ようやく落ち着いたの。こんなに熱が続いたのも初めてだからびっくりして。もうあの子、治らないかもしれない。病気が治ってくれるだけでいいのに」。母親は今まで言ったこともなかった弱音を吐き、見せたこともない表情で頬に涙を流す。

 「ごめんなさいね。実習が今日で終わりって聞いてたでしょ。あの子、学生さんと仲良くしてもらっていたから、別れを辛がっていたの。毎日、学生さんが帰ってから明日はあれをしよう、これをしようって楽しみにしていたわ。今、学生さんに会ったよ、なんて言ったら、きっと怒られるわね」と気丈にも笑って見せたが、誰も居ない洗面所で母親ととめどなく溢れる涙を、絶えることなく流し続けた。

 まだ幼いけれど、日々生きているということを実感し、辛い治療にも弱音を吐かなかったTくんや、息子の前では決して弱さを見せなかった母親の強さを目の当たりにして、本当の強さとは、弱さを知り、命を感じる深い絆からなるものだと教えてもらった。どんなに、知識や技術を頭の中に詰め込んでも、生きるということを実感し、活きた看護をしていかなければ患者を本当に理解することはできない。Tくんとの出会いは、決して忘れてはいけない大切なことをもう一度思い返すことが出来る体験となった。