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<一般の部> 日本医師会賞
「苦死を超えて……」


山形 明子(東京都)

 平成二十五年、師走も押しつまったその日は小春日和の暖かい午後でした。私は、ちょっと疲れをおぼえて、いつものように昼寝をしようとベッドに横になろうとしました。

 あっ! 四、五十センチの高さのベッド。その上でからだがすべった。私のからだはベッドと壁のあいだに挟まって─。

 手と足の先だけは動いても、首、腕、腰はまったく動かない。どうしよう、これはこまったことになった……。手のとどくところには非常用ボタンもない。私は、長年、この公団マンションでひとり暮らしをしてきました。玄関をはじめ、どの鉄のドアも閉まっています。どんなに大声でわめいても、どこにもとどかないでしょう。

 そのときからマル一年が経とうとしているいま、私は思い出しながら書いています。

 ベッドの脇で身動きできずに、時はどんどん過ぎ、九十三歳の老体の衰えはどうにもならず、私は気力も失い、眠ってしまったようです。それは不思議な静寂、「やっと死ぬときがきた」という諦念の快感(?)のような気分になった……思いがあります。

 倒れ、動けなくなって、その状態がマル二日以上、五十時間も経って、私は救急隊によって救出されました。私の知人、同じマンションに住む七十代の男性─カルチャー教室で講師をしている─の一一九番通報によって救出されたのでした。私がふだん“先生”と呼ぶKさん、電話応答もなく、玄関ベルにも反応なしの“異常”に気づいての行動、手配でした。このK先生のすばやい判断、手配なくして、私のいのちは断たれていたと思います。さいわい、直近の救急病院が空いていて入院、即時処置のおかげで、私は“生かされた幸運”を得ました。入院、一日ほどして、私はそれを初めて知る。ベッドの上に点滴の袋がぶら下がっているのを目にした瞬間です。

 白衣のお医者さんと看護師さんが「山形さん」と叫ぶように言う。

 「どうですか?」「わかりますか?」

 私は、はっきり答えた。「いい気持ちです、まるで天国にいるみたいです」。

 すると、看護師が目を細めて、はずむような声で「ああ、よかった」そして笑い声で「ここは天国じゃありませんよ」。

 私は、ここは天国で、あなたは天使ですと口にしようと思ったがやめた。クリスチャンの私は、その白衣の女性が輝ける天使に見えたのですが……。

 その白衣の天使とは、いらい約二カ月おつきあいすることになる。名前はSさんといい、とても親しくお話しさせていただきました。なんでも問いたださないとすまない、うるさい、理屈っぽい私です。入院当初の病名(症状)は「脱水症貧血」とか「廃用性症候群」などと、彼女は無知な患者にやさしく説明してくれました。

 何を突っ込んで言っても、彼女はいつでも嫌な顔、そぶりも見せず、私にわかる言葉で答えてくれる。なにより、白いマスクの下の唇がほほ笑んでいるのがわかります。彼女の優しさは、その人柄にも表れていて、K先生が来て毎日のように替える花瓶の花にも敏感でした。「あらっ、きょうのお花、とてもきれいね」と。彼女の、ていねいな治療の説明にもまして、お花をほめてもらう言葉にどれほど励まされ、元気づけられたか……。

 そして、担当医のH先生。私は、一日、一~二回の巡回に見える先生に、その姿やお声に、どれほど力づけられたか、はかりしれません。まだ若い、せいぜい四十代の内科医の先生の、いつも口癖のように言うひと言「だいぶ良くなってるね」。二十四時間点滴、二週間のあいだ、私が「先生、ちょっと熱があるようです、頭が痛い気がします」と訴えても、「うん、だいじょうぶ。明日はきっと治まるから」。じっさい、たしかに翌日は熱も下がり、気分もすっきりするのです。

 そうして、美しい笑顔の白衣の天使Sさん、若いながら沈着、冷静なH先生、それに二十四時間、広い院内をかけ足で溌剌(はつらつ)と治療に当たる諸先生や看護師さんたちのおかげで、私は六十五日して、無事に退院できました。

 とはいっても、老齢の身で、すぐにはひとり暮らしは無理と、病院のソーシャルマネジャーのご配慮で、いわゆる「老健」の施設で約一カ月お世話になりました。

 そして、現在は新設の「ケアハウス」に入居させていただき、以前と変わらぬ杖ひとつで元気で歩ける日々を送らせていただいています。

 先日、私は満九十四歳の誕生日を迎えました。そのとき、K先生は「九四、苦死を超えて新しい人生」と達筆に墨書した色紙を下さいました。私はいま毎日この色紙を見ながら、あと六年、百歳で二〇二〇年の東京オリンピックをこの目で見たいと思っています。