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<一般の部> 優秀賞
「最後のオーダー」


菅中 沙都姫(福岡県)

 私がKさんと出会ったのは、まだ看護学生で19歳の時でした。私が担当する患者様でした。50代後半の男性で、病名は肝硬変。やや色黒でパンチパーマが驚くほど似合い、病衣の隙間から見える首元には、金色のネックレスがキラキラと光り、あまりの威圧感に身構えてしまいそうな、そんな風貌の患者様でした。

 そんなKさんと初めて顔を合わせ、あいさつをした時のことです。私は「看護学生の綾田です。4週間よろしくお願いします!」と、恐怖心を隠しながら精一杯の笑顔で言いました。するとKさんは眉間にシワを寄せ厳しい表情で「あんた、手を見せなさい」と。私は(何を突然)と思いながら両手を出しました。するとKさんは、私の手をじっと見つめて「あんた、料理してないね」とにっこり笑って言うのです。びっくりしました。Kさんは、地元では有名な某ホテルの料理長をされていたのです。私は、料理をしていないことを見破られた驚きと、ギャップを感じる笑顔と、パンチパーマで金のネックレスをした、こんなにも威圧感のある人がまさかの料理長ということに衝撃を受けました。

 私は実家から通っていたため、料理はほとんどしていませんでした。しかし、「食」に対する執着は人一倍でしたので、その日から毎日Kさんと、検査や点滴の合間に料理や食事の話をしました。昼食の盛り付け方を勝手に評価し、やり直してみたり、料理番組に見入ったり。時には、Kさんにとっておきのレシピを教えてもらうこともありました。さらに「Kさん、退院したら私に茶わん蒸しを作って下さい! 料理長の作る茶わん蒸しが食べてみたいです!」と冗談を言うと「腰抜かすなよ!」と、あの笑顔で返してくれました。

 しかし、Kさんの病状は深刻で、私の実習が始まってすぐの頃、既に肝硬変は肝がんへと移行し、余命は1年ありませんでした。実習が終わる頃、おなかは腹水でぱんぱんになり、目や皮膚は黄色く黄だんが出ていました。安静時間も長くなり、点滴の量は増え、Kさんの笑顔はどんどん減りました。私はベッドの上でKさんの髪を洗ったり、体を奇麗に清拭したりし、少しでもKさんの気持ちが病気からそれるよう、楽しい話題でたくさん話しかけました。再び料理長として厨房に立つことは無理でも、料理を楽しむことをあきらめてほしくなくて、看護学生の私にできることの全てをし、そばにいました。

 そんなある日の朝、私が病室へ入るとKさんは横を向いて静かに眠っていました。しかし、真っ白な枕カバーの目元には大きなぬれたシミがあったのです。それが涙で出来たものだと私はすぐにわかりました。私が来る前にたった一人で泣いたのです、こんなに大きなシミが出来るほど泣いたのです。私は込み上げてくる涙を我慢できませんでした。看護学生と患者様でしたが、そばにいた4週間で、心を開いてもらえる関係だと思っていました。でも足りなかった。Kさんは、私には何も言わず、私が来る前に1人でたくさん泣いていました。心を開ける程ではなかったのだと、涙のシミが証明しているようで悔しくて、悲しくて、支えになれなくて、ベッドサイドの椅子に座り、声を殺して泣きました。ポタポタと落ち続ける涙を、止めることも出来ませんでした。

 あっという間に実習が終わり、学校での授業が始まった頃、私のもとに1本の連絡が入りました。「○月○日、○時、○○ホテルに来てください」と。Kさんの勤めるホテルでした。私はまさかと思いましたが、指定の日時にホテルへ行きました。名前を言い、通されたのは、ランチの時間も終わり、お客様も誰もいないレストランのカウンターでした。そこには、真っ白な調理衣を着たKさんが、ゆっくりと調理をする後ろ姿が見えました。大きく肩を上下させ、必死に呼吸をしています。しばらくすると、ゆっくりとした足取りでKさんが、茶わん蒸しを運んでやってきました。「今日で退職するんだ。料理長としての最後のオーダーは、あんたの茶わん蒸しだ」と。その姿と言葉にまた涙があふれ出ました。あふれる涙は止まらず、私は泣きながら料理長の茶わん蒸しを食べました。最高の茶わん蒸しでした。

 少しの時間、Kさんと会話をしました。ドクターに無理を言い、退職届を出すためにわずかな時間、外出してきたと。ホテルの調理場も協力してくれたと。身寄りのないKさんにとって、4週間、私が支えだったと。

 数か月後、Kさんは亡くなりました。あれから18年がたちます。私は、Kさんのおかげで医療従事者として誰かの支えになれる喜びを知りました。一生、医療従事者でありたいと思えました。

 Kさんほら、私の手を見てみて、仕事も料理も頑張っているよ!