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【一般の部】<厚生労働大臣賞>
「お父さんの思い出づくり」


杉本 眞由美(福岡県)

 19年前、夫はALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断された。

 いくつもの病院を渡り歩き、やっと診断された病名はあまりにも過酷なものだった。

 治るどころか、何の術もなくただ進行していくのを見ているだけ。「治療薬も治療法もない。進行性の難病である。今、動いている手も足も動かなくなる。人工呼吸器を装着しないと生きてゆけない。寝たきりになる等々」

 初めて受けた告知の医師の言葉ひとつ、ひとつを素直に受け入れられず、私達はこれから何をして、どうやって夫と生きていけばよいのだろうと考えれば考えるほど涙があふれ出て、とても前向きに生きていけるなんて想像もつかなかった。

 〝どうか誤診であって〟。そう祈り続けた。

 しかし、現実は厳しく病気の進行は止まるところを知らなかった。ろれつが回らなくなり、手、指の動きがにぶくなってきた。

 のどに物がつまる様になってきた。おはしが持てない。すると、小6になった長女がパンを小さく切って食べさせたり、吸引の練習を始めた。小2になった次女が顔を拭いたりヒゲをそったりしていた。幼稚園に入園したばかりの長男は車イスにのせて上手に操作していた。3人の幼い子供達も父親の体の変化に気付き、自分達で出来る事を考え、いつしか家族全員で24時間介護を行っていた。

 学校の休日は、遠出したり、外食したりすることは出来なくなったが、自宅近くの大きな公園で歩行訓練をしたり、発声練習をしたり杉本流のオリジナルリハビリをして過ごした。

 何とかこのまま落ち着いてやっていけるかな? と思っていた矢先、高熱を出し膿胸(のうきょう)になった。意識がもうろうとしてゆく夫の目から一筋の涙がすーっと流れた。〝もう、だめかもしれない〟。夫のかたわらで泣きくずれている私に主治医から告げられた。「もうご主人に時間がありません。家に帰って、家族の思い出を作ってあげて下さい。子供達にお父さんの姿とぬくもりをしっかりと覚えさせて下さい」と。一日も早く家に連れて帰りたいのだが、様態も悪化した為(ため)、今までの様に家族だけでの介護は不可能だ。

 まだ介護保険もない時代だったので自分で計画(ケアプラン)をたてるのは容易なことではなかったが、K市の障害福祉課や社会福祉協議会、保健所の方々に相談に行き、訪問入浴サービスや訪問介護サービス、訪問看護ステーションの協力を要請した。

 介護疲れもあり、かたづいていない家に他人が毎日入るのはすごく抵抗があったけど、学校でいじめにあったり、近所の心ない人に冷たい言葉を言われたり、苦しい時にスタッフの皆さんが自分の事のように私達家族に愛情を注いで相談にのってくれたおかげで、少しずつ強くなり困難を乗り越えられたと感謝している。

 その後、夫は拒絶していた人工呼吸器を私の責任のもと装着する事になった。

 「呼吸器をはずしてくれ。死なせてくれ」と、文字盤で夫は訴え続けたが「私が責任をもって装着すると伝えた。いっしょに最後まで、せいいっぱい生きぬいていこう、まだ子供との思い出づくりは終わってないよ、生きてさえいれば、どんな体になっても、これからもたくさんの楽しい思い出を作ってゆけるよ、いつまでも、ずっといっしょにいるから」と何度も何度も説得し続けた。

 10年以上も主治医をしてく下さったY先生、急変すればどんな時もすぐかけつけて治療して下さる主治医のI先生、3か所の訪問看護ステーション、2か所の訪問介護ステーション、訪問入浴の各スタッフの方々、それぞれのケアの計画をたてるケアマネジャーのおかげで呼吸器を装着して10年超えた今も在宅で療養生活を続けられていると感謝している。

 ふり返ってみると、夫の病気はとてもつらい事だが、決してマイナスばかりでもない。今まで人として当たり前だった事が、こんなにもありがたい事だと感じられるようになったり、人と人との絆の深さや心からの励ましがどんなに生命力を与えてくれたかを肌で感じることができた。

 幼かった3人の子供達も成長し、長女は看護師、次女は薬剤師になり、長男は理学療法士の大学4年に在学中と、それぞれに違った角度の医療現場から夫の病気を見つめ、自分達が経験した事を活かしてゆこうと努力している。私も微力ながらC地区ALS患者家族会の代表として活動を始めた。

 これまでお世話になったすべての医療従事者の方々、本当にありがとうございます。

 そしてお父さん、人工呼吸器を着けてくれてありがとう!生きていてくれて、ありがとう!まだまだこれからも思い出づくりは続くよ、生命ある限り
    最愛の家族とともに……。