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【一般の部】<入選>
「命をいただいて」


上島 博(奈良県)

 荷物を持って大部屋に入った。となりのベッドの人が、「白血病ですか?」。

 ああ、私はそんなところへ来たのだ。生まれて初めての入院は、長期戦になりそうだ。

 一月(ひとつき)前の人間ドックで強く勧められて受診した血液内科。そこで告げられたのが、骨髄異形成症候群(MDS)という病名だった。血球が正常に作られず、貧血などの症状を呈する。進行すれば白血病にもなるという。

 「年単位の治療が必要です。骨髄移植も視野に入れなければいけない病気です」

 落ち着いているつもりだったけれど、シャツの下が汗ばむのが分かった。

 職場は小学校。入院まで1か月の猶予があるので、仕事の引き継ぎをし、担当の6年生に休むことを告げ、最後になるかも知れない運動会もして、入院の日を迎えたのだった。

 不謹慎かも知れないが、ちょっとのんびりできるというわくわく感もあった。実際、仕事をしていた時とちがって、ストレスがほとんどなくなった。看護師さんたちはやさしいし、食事もおいしい。同室の人たちとも楽しくすごせた。17歳の少年は、ロビーでいつも勉強をしていた。名聞だけでK大学を目指していた彼は、病気に出会うことで、医者になりたいという夢を持つようになった。

 私は、MDS専用の治療薬の投与を受けたが、明らかな効果が表れないまま、少し動いただけで息が切れるようになった。その内、輸血が必要だと言われた。ヘモグロビンの値が低くなっていたのだ。400ミリリットルの赤いパック。どなたかの善意と生命が込められている。輸血してもらうと元気が出る。あらためて血液って大切なのだと実感した。1週間後にヘモグロビンがまた下がって、再度輸血が必要になった時は悲しかった。人の善意によって私はなんとか命をつなぐことができた。

 いよいよ、骨髄移植が現実味を帯びてきた。HLAが適合した兄にお願いすると、ふたつ返事で引き受けてくれた。きっと、兄も兄の家族も不安があっただろうに。

 しかし先生は、「骨髄移植は夢の治療法ではありません」と、おっしゃった。移植したからと言って、すべての人が治癒する訳(わけ)ではない。重篤な後遺症が残る場合もある。移植前後に命に関わる事態が起きることもある。

 これは随分考えた。いろんな人に意見を求め、本を読み、考えた。それで道理ある結論にたどりつけた訳ではない。

 しかし、流れは移植に向かっていた。年齢がもう少し高ければ移植できない、兄と適合しなければできない、その兄は快く引き受けてくれた、最新の医療技術を持つ病院に入院できて、優秀な先生方がチームを組んで治療してくださっている。

 移植したくてもできない人は、きっとたくさんいる。世界を見れば、医者にかかれない人さえいるのだ。多くの人の努力と善意が結集して、高度な医療が私に用意されている。この流れに乗っていこう、そう思った。

 しかし、移植を前にして熱が出た。肺炎だった。移植どころか、命に関わる事態だったようだ。強い抗生剤が使われた。気がつくと黒い物が紫に見える。白い壁に黄色いもやもやが見える。目をつぶると、次々に映像が現れる。起きているのに夢を見ているような状態。今はまだ現実との区別がついているが、先のことを考えると怖くなった。

 看護師さんに話をした。心配そうに聞いた後、いつもの笑顔はひっこめて、「私たちは、どんなことがあっても上島さんを支えますよ」と、きっぱりと言ってくださった。

 やがて熱は下がり、黒い物は黒く見えるようになった。2か月の回り道をしたが、移植の日程が決まった。

 その前に、3日間一時帰宅することになった。先生は、「移植は厳しい治療です。一旦(いったん)自宅に帰って、リフレッシュしてきてください」と。先生のおっしゃりたいことは、分かった。それで私は、友達に会って他愛(たあい)ない話をしたり、実家に行って親の顔を見たりしながら、心の中でお別れを言ってきた。

 そして移植日。兄にとっては全身麻酔の「手術」である。午前中をかけて兄の骨髄から吸引された血液が、昼過ぎに私のクリーンルームにやってきた。澄んだ血の色をした1リットルもの骨髄液のパック。一滴一滴、その命の元を私の体にいただいた。点滴が終わりに近づいたのは真夜中。看護師さんはパックを高く掲げ、最後の一滴まで送ってくださった。

 それから2年3か月。兄の造血幹細胞は私の中で力強く血液を生み出してくれている。私は今、たしかに生きている。復職まで果たした。なんと、4年生の学級担任をしているのだ。私が病気だったことを知っている子どもたちは、誕生日を教室で祝ってくれた。私は多分、日本で一番幸せな60歳の学級担任である。